メモ:『風立ちぬ』『ペギー・スーの結婚』「八つ墓村」『レイジング・ブル』「風雲児たち~蘭学革命篇~」『触手』『武士の家計簿』
可塑性。
生きとし生けるものの一部としての機械の機体、起きて見る夢と寝て見る夢、溶け合い繋がり合う線と線、イメージとイメージ、意味と意味との只中で、ただ生きる、生きているという、その単純なリアルの「美しさ」。
それがこれ、これがそれになる、なりかわる可塑性の「美しさ」。
『ペギー・スーの結婚』(1986/アメリカ/フランシス・フォード・コッポラ)
演出の為だけに装置化された擬似鏡は映画が映画であることの逆接的な証となる。
リアリティの為のリアリティではなく映画のリアリズムにこそ傅くこと。
18歳から43歳の人物を敢えて同一の役者が演じること。
何かが起こる、その直感を画面に充すこと。
それこそ映画のリアリズム。
「八つ墓村」(2019)
ヴァンプ真木よう子の立ち様と崩れ様には惚れる。
「君を愛していた!」からの物語の畳み掛けには泣く。
男子から見た女子三類型のキャラ立ちぶり。
終わってみれば『カリオストロの城』見終えたみたいな「見届けた」感。
吉岡秀隆のジミな変人ぶりも。
でもやはり真木よう子。
『レイジング・ブル』(1980/アメリカ/マーティン・スコセッシ)
モノクロームが、「映像」を廻るイメージ的なオブラートとしてではなく、被写体となる事物の即物性を露わにする施工として機能する。
逆に希少なカラーパートは、むしろ「映像」を廻るイメージ的なオブラートの趣向そのものとして機能する。
サイレント映画的な事物の即物性が画面の中で担保されることで、映像演出のケレンが自然なリズムとして画面連鎖の中に定着する。
そんなスタイルがあってこそ、全てのシーンの時間が、過去でも現在でもない、あるいは過去でも現在でもあるような生の時間、即ち「映画」の時間として止揚される。
始まりも終わりもない一代記。
演者が役になるというより役が演者になる。
その演者のその顔こそが、正にその役その人のふたつとない顔そのものであるかのように見えてくる。
それはその人がその人であるという真実に妥協なく、飽くまでも関係ありきの個我ではなく個我ありきの関係として群像劇を描き出す描写の功。
そして良沢や玄白の仕事の大きな意義が暗黙の内に自ずから視聴者に伝わる構成の妙。
総じて、「仕事」を成し遂げること、その具体的な情熱へのリスペクトあっての脚本。
人物と人物は、日本家屋独特の枠の中に枠を組む奥行ある縦構図の中で相対する。
顔と顔とのリバースから縦構図のロングへ。即ち演出。
『触手』(2016/スイス、デンマーク、ドイツ、ノルウェー、フランス、メキシコ/アマト・エスカランテ)
快楽堕ちエロ漫画的な妄想をニュアンス主体で映像化。
画面の中に映し出すべき被写体を判然と据えないことで不安感を演出するやり口は安易に見える。
作劇の構図の中で子供達の存在感がバランスとして何気に大事に見えるが、総じて「物語る」という意思に乏しい為に、それも又何がどうなることもない。
ポイントになる事柄には前フリを欠かさない律儀な脚本。
それは2時間足らずな映画の時間の中で人物達の人生の時間を見る者に共有させる為の基本の手管。
地味なれど演出意図のあるキャメラワーク。