映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『紳士は金髪〈ブロンド〉がお好き』(1953/アメリカ/ハワード・ホークス)

 

映像の作成がごく簡易化された現在以降にあっては、基本的にステージ上で演じられる演劇や音楽や、あるいはミュージカルやオペラ、それらの記録としての映像作品は数多制作され、残存していくことになるだろうが、それでも映画はともあれ映画として、何はともあれあちこちで再映され、再生され続けていくのではないか。何故ならば映画は、何かしらの記録的な媒体である以上に、本来的に映像そのもの、即ちイメージそのものの媒体として制作される筈のものだからだ。

 

この映画はとにかく画面に老若男女を問わず人間が多く出て来る。つまりモブシーンが多い、と言うよりモブシーンばかりの映画だ。それは歪に思えるほどに徹底していて、たとえば終盤のミュージカル場面では、舞台上のシャンデリアや燭台や街灯さえ生きた人間の女性達が演じていたりする。一歩間違えば、あるいはこのままでも悪趣味的にさえ見えるこの映画の、この「肉林」ぶりとは、いったいなんなのか。ローレライを演じるマリリン・モンローは確かに肉感的なスタイルの持ち主だが、だからこその肉体性、物体性の強調なのか。

 

たとえばモンローが、小さな窓に腰をつかえさせる場面。それはローレライの一見頭足らずな風の可愛らしさのキャラクター描写として以上に、窓に挟まれて上半身と下半身に分断されたりタオルケットで首だけになったりすることで、被写体としてのモンローの身体を物体的イメージとしてあられもなく露呈させてしまう。そんなことが為されるのは、少なくともこの映画のモンローがまさしく物体的イメージとしての偶像に他ならないからで、尚且つそれが造られた虚像であることは、法廷の場面でドロシーを演じるジェーン・ラッセルがモンローが演じるローレライのキャラクターを巧妙にコピーし切って演じ倒してしまう展開に象徴的に表現される。

しかしその一方でこの映画にはクローズアップは少ない。クローズアップは映画に於いて物体のイメージを世界から一旦切り離して即物化、換言すれば「そのもの化」し、映画の説話的なパーツ足らしめる為の基本的な手管だろうが、この映画のとくに人物に関して、表情の、少なくとも心理表象としてのそれは全くないと言える。だのに演者達の、とくに女性的な女性演者達(ミュージカルの舞台装置化させられた女性達も含めて)の身体は、中距離的な客観的な画面の中でグロテスクなまでに即物化される。

それはつまり、この映画はこの物語を、とりも直さず感傷的なメロドラマとしてではなく過酷なコメディとして描き出しているということだが、それを強いるのは、たとえば女性の髪の色でそのキャラクターを分類する様な映画のキャメラ、男性的な識別の視線であるとは言える。

 

「あの二人が溺れたらどっちを助ける?」

「二人とも(自力で)浮くさ」

(日本語字幕)

乗船しようとするローレライとドロシーを見遣ってオリンピック選手の男二人が交わすセリフ。「二人とも(自力で)浮くさ」(英語テキスト原文では”Those girls couldn't drown.” で、より直訳的に翻訳すれば「彼女達は溺れることが出来ないさ」となる)は、つまり二人の女性の肉体的な優位性(豊満さ)への素朴な賛歎とも聞き取れる。

この映画のキャメラは飽くまでローレライやドロシー(を演じるモンローやラッセル)の肉体性を被写体として捉えるものであっても、それを撥ね返してくる様な被写体そのものの強さには率直なリスペクトをも投げ掛ける。ドロシーは法廷の中で、賢しらに虚飾を突いて暴こうとする男達の追求を虚飾の貫徹と真情の告白に於いて凌駕してしまうし、ガスの父親を前にしたローレライも、自分自身のキャラクターをめぐる虚実の皮膜をあっけらかんと是認してしまうことで、むしろ「父親」を呑んで掛かる。

そんな自分達の優位性を活用して目的を達してしまう彼女達のアクションを描くことは、彼女達の「男前」ぶりへのリスペクトの感覚ありきのことだろう。(「男前」という表現がそこに当て嵌まるように思えてしまうのは言葉のふくむ綾ではあるにせよ。)

 

「紳士は金髪〈ブロンド〉がお好き」とはまるで悪しきルッキズムそのものだが、映画はもとよりイメージの媒体でこそあって、つまりは一面残酷なルッキズムによる世界でもある。

この映画でさかんに歌われる「ダイヤモンド」は、まさにそんな目に見える美貌や冨貴の象徴的なルックではあるだろうが、それに貫徹して執着するローレライ=モンローのキャラクターは、むしろその「ダイヤモンド」を半端なルッキズムの象徴から不変的な真情(愛とか心とか、それはなんでもいい)の表徴と化さしめる様に思える。一見すれば外化されたものでしかないあるイメージを、むしろ即物的に徹底的に貫徹することでイメージそのものを内実として充填させる。それは映画というものの顕著な在り様でもある。

物語の終幕でもとより類型も願望も違う二人が共にめでたく結婚式を迎えるのも、想いの純粋さに於いて、またその成就した幸福に於いて、二人にはなんの違いもない、ということでもあって、だから二人は二人ともその指に「ダイヤモンド」をはめている。

 

王子様とお姫様が結婚してめでたしめでたしとなる「お話」は、それは旧い。旧いお伽噺だ。しかしこれは映画だから、物語に一応の終わりを付さねばならなかっただけだ、とも言える。

その一応の結末に至る為にローレライが見せた貫徹された執着と、それを実現する為の表裏ない情熱と巧妙こそ、その物語が描いた本当のものだろう。それはだから、性差の話というよりは、常人と超人の差の話とも言えようものだ。

無論、現実の世間にそんな超人はいないし、だからそんな強さを現実の人間達に求めることも出来ない。そのことは、それを演じた生身のマリリン・モンローがついにはその偶像化の抑圧に殺されてしまった(のであろう)事実が示してしまっている。

だがそれでも、偶像は映画の中で生きている。命を得た偶像が生きて動き回ってこその映画だし、それは現実の似姿でありながらやはり似姿なんかでは全然ないものとしてそこにある。

 

映画館でリバイバルされたものとVODで配信されているものを両方見たが、リバイバルされたものでは鮮やかに識別され得た衣装の深い蒼味が、配信されているものの方では薄黒く潰れてしまっていた。

また字幕の翻訳も双方で結構異なっているが、これはどちらも箇所により一長一短があり、総じて意訳的だと話の流れが判り易いがセリフ自体の細かいニュアンスや示唆的な含蓄が失われる傾向にあった。

この映画のオリジナルのテキスト自体は、英語の言葉遊びも多く、細かなニュアンスや示唆的な含蓄が大事な類のものだろう。

(”Those girls couldn't drown.”のセリフは、二種類の日本語字幕で「二人とも浮くさ」とも「誰もが二人を助けるさ」とも訳され、某日本語吹替では「あの胸では沈めないさ」ともなっていて、確かに解釈によってどちらでもあり得る様で、コケティッシュな女性的魅力というものにまつわる相反的な機微をも滲ませている。)