映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『理大囲城』(2020/香港/香港ドキュメンタリー映画工作者)

炎と煙、放水と雨傘、発煙弾とガスマスク、火炎瓶と弓矢とゴム弾、「四面楚歌」や「十面埋伏」、バリケードとレーザーポインターとが、昼と夜の闇と光の中を目くるめく、目まぐるしく交錯し、その最中で走り抜け、駆け回り、突破を試みる学生達と、それを押…

『紳士は金髪〈ブロンド〉がお好き』(1953/アメリカ/ハワード・ホークス)

映像の作成がごく簡易化された現在以降にあっては、基本的にステージ上で演じられる演劇や音楽や、あるいはミュージカルやオペラ、それらの記録としての映像作品は数多制作され、残存していくことになるだろうが、それでも映画はともあれ映画として、何はと…

『ワーロック』(1959/アメリカ/エドワード・ドミトリク)

冒頭、馬上の悪党達が向かうワーロックの町の、砂地の辻が映し出されると、そこに一台の馬車が進む姿が見える。見れば荷台の大きな樽の後部から幾筋もの噴水を散らしているそれは、散水馬車、というらしい。 現在でも普通に見られる散水車と同じ用途の馬車バ…

「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」

●第一話『戦場までは何マイル?』 冒頭の北極基地強襲の場面からして、見る者の身体感覚に訴求するようなMS戦闘を巡るアクション、ギミック、あるいは画面のレイアウト、即ち演出があるように見える。 水面から垂直に飛翔し、そこから滑走しつつ氷上に落着…

『ミッドウェイ』(2019/アメリカ、中国/ローランド・エメリッヒ)

漠然と、曖昧に揺らぐ襞状の濃淡が、やがて葦の群生のクローズアップとして画面の中で判然と露わになってくる。そしてその向こうで雁を捕ろうとする網が動いている。 これだけで故なく「映画」だと感じられる。なに故かは本当によくわからないが、確かに。 …

メモ:『星屑の町』「心の傷を癒すということ」『37セカンズ』『響 -HIBIKI-』「女川 いのちの坂道」「盲亀浮木~人生に起こる小さな奇跡~」 「ストレンジャー~上海の芥川龍之介~」

『星屑の町』(2020/日本/杉山泰一) あるいは贔屓目なのかも知れないが、ならば見る者を贔屓目にさせる一際な何かがあるのだと、この映画の活けるのんさんを見ていても言いたくなる。演出なり演技なりの狭間からときとして表出する御愛敬。野暮ったい田舎…

メモ:『犯罪都市』『ブラッディ・ガン』『台北ストーリー』『ロビンフッドの冒険』『わたしは光をにぎっている』『AKIRA』『スケアリーストーリーズ 怖い本』

『犯罪都市』(2017/韓国/カン・ユンソン) 「犯罪都市」ソウル、その混沌としたローカルな地域性がどこまで現実に根差すものかは判らねど、活劇の舞台となるにはこんな国際化と地域性の鬩ぎ合う社会的背景は欠くべからざるものなのかも知れず。1stショッ…

メモ:『風立ちぬ』『ペギー・スーの結婚』「八つ墓村」『レイジング・ブル』「風雲児たち~蘭学革命篇~」『触手』『武士の家計簿』

『風立ちぬ』(2013/日本/宮崎駿) 可塑性。 生きとし生けるものの一部としての機械の機体、起きて見る夢と寝て見る夢、溶け合い繋がり合う線と線、イメージとイメージ、意味と意味との只中で、ただ生きる、生きているという、その単純なリアルの「美しさ…

『火口のふたり』(2019/日本/115分)荒井晴彦

台詞を撮っている、と思える。台詞を話している演者ではなく、演者が話している台詞を撮っている、ように見えてくる。それは始め、所謂「行間を読ませる」というよりは行そのものをそのまま読ませているような印象として触知される。とにかく演者が演じると…

『ドッグマン』(2018/イタリア、フランス/103分)マッテオ・ガローネ

暴力には暴力を、と宣うような判然たるアメリカ映画的な活劇の構図でもなく、しかしかと言って暴力と非暴力の狭間に煩悶する人間ドラマ的な心理劇の構図でもなく、ともあれ主役となるマルチェロは、その「肖像」を映画の画面に露呈し続ける。 映画を見ていて…

『さよならくちびる』(2019/日本/116分)塩田明彦

女性二人の今まさに唄を歌うくちびるがつむがれる言葉に合わせて蠢く、その様子が、演技でありながら演技でなく、また演出でありながら演出でなく、くちびるが蠢くその様子そのものとして画面の中に映える。生きている、と言うことなのだと思う。 ロードムー…

『ペパーミント・キャンディー』(1999/韓国、日本/130分)イ・チャンドン

それは青年が見た末期の夢。 1979年から1999年までの20年間の、ある韓国人の一男性の半生を遡る物語。時間を「遡る」、その逆行のイメージを、この映画は一見あまりにも素朴な、前進する列車の最終車両から撮影された、過ぎ去っていく後景の線路の映像の、そ…

『勝手にしやがれ』(1959/フランス/90分)ジャン=リュック・ゴダール

映画を見た者に「映画を見た」と信じさせるのに、もっとも端的で有効な方法は何かと言えば、「物語をわからせる」ことではないか。「物語をわからせる」とは、そこで示されていることを言葉に翻訳して自分で語ることが出来るようにする、と言うことで、だか…

『火垂るの墓』(1988/日本/88分)高畑勲

ある人間がある運命を現実に辿ったこと、そのこと自体を良い悪いで判断することなど本来は出来る筈が無いのに、物語として提示された全体を前にすると人は安易にそれを言い始める。物語には帰結があり、帰結があるかぎりで過程もあり、だとするとまるで何と…

『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999/日本/104分)高畑勲

家族の、家庭の映画であるが故に、それは父親のタカシの映画としてだいたいはまとめられる。何故なら一家が一家である以上は、誰かがその支え役としての大黒柱でなければならず、ここでは順当に父親のタカシがその役を担わされているからだ。父親がその役を…

『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994/日本/119分)高畑勲

「漫画映画」。漫画の漫画たる所以は平面的に描かれることであって、つまり必ずしも立体的な構図を前提としない。平面的に描かかれることにあっては記号的な表徴が支配的になり、描線は立体の細部というよりは平面の図式と化し、つまり描線が描線それ自体と…

『運び屋』(2018/アメリカ/116分)クリント・イーストウッド

「運び屋」の自覚を帯び始めた老人が、しかしふと「仕事」の道すがらに路肩で立往生している黒人家族の車に行き会う。タイヤがパンクしたという黒人の若夫婦に気軽に声をかけて助力を申し出る老人は、その口からふと「ニグロ」という差別的な古い言葉を漏ら…

『おもひでぽろぽろ』(1991/日本/118分)高畑勲

1991年時点での1982年と1966年の物語。つまりは過去の物語。映画の物語本編の中では1982年が現在で1966年が過去というかたちになっているが、1991年の映画の観客からすれば1982年も1966年も近くあろうが遠くあろうが過去には違いない。原作漫画が1966年の子…

『じゃりン子チエ 劇場版』(1981/日本/110分)高畑勲

映画を基本的に構成する二つの軸があるとすれば、それは「演出」と「演技」であって、それがアニメーション、とくに人の手で描くアニメーションに於いて難しいのは、恐らくキャラクターに「演技」をさせることなのではないか。基本的に画面の全てが人の手に…

『A GHOST STORY  ア・ゴースト・ストーリー』(2017/アメリカ/92分)デヴィッド・ロウリー

愛する男を喪った女が、キッチンでひとり座りこみ、食器いれに寄りかかって延々とパイを食べ続ける場面がある。延々と食べ続けるその行為は、無論一種の自棄食いというもので、一見すれば延々と食べ続ける様子を延々と捉え続けるかのようなその場面は、そこ…

『マリアンヌ』(2016/アメリカ/124分)ロバート・ゼメキス

遠くに臨む太陽を焦点に、キャメラの視点が眼下の砂漠へと「落下」しつつあることが、画面の前を上へ上へと過っていく雲のような薄い霧状の気体によって判然とする。落下していくキャメラは、そのまま画面の上から降りてくる人の足から体、そして落下傘に吊…

『沖縄スパイ戦史』(2018/日本/114分)三上智恵、大矢英代

「スパイ」や「陸軍中野学校」などというワードが映画的な興趣をそそる、なんて物言いは無論粗暴な言い草に違いないだろうが、しかしこのテレビ的なドキュメント作品はたしかにそんな秘匿された事実自体のフィクショナルな喚起力に、作品としての魅力を支え…

『機動戦士ガンダムNT』(2018/日本/90分)吉沢俊一

ガンダムはガンダムであって、それ以外のものではない。良くも悪しくも。 『逆襲のシャア』の原作だった富野由悠季による小説『ベルトーチカ・チルドレン』の物語の中で、アニメ版の「サイコフレーム」と作劇的な意味で同様の役割を担うのは、アムロとベルト…

『愛しのアイリーン』(2018/日本/137分)吉田恵輔

映画を見ていて、現に目の前にあるその画面を構成しているハンディキャメラがたしかにハンディキャメラらしいと識別できるのは、その画面が微妙にふれ続けているからだ。映画には画面という、本来可視的であるのにもかかわらずそれが無視され続けることで初…