映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『ワーロック』(1959/アメリカ/エドワード・ドミトリク)

 

冒頭、馬上の悪党達が向かうワーロックの町の、砂地の辻が映し出されると、そこに一台の馬車が進む姿が見える。見れば荷台の大きな樽の後部から幾筋もの噴水を散らしているそれは、散水馬車、というらしい。

現在でも普通に見られる散水車と同じ用途の馬車バージョンであることはすぐに判るが、西部劇の舞台になるその時代、その場所にそんなものが出て来ることは、ちょっとした意外の感をもよおさせる。考えてみれば確かにとても埃っぽい環境であっただろうその時代、その場所でそういうものが運用されてあることは理の当然なのかも知れないが、それでもそこにそんな意外の感を漠然と抱いてしまうのは、それだけ西部劇一般とその舞台の印象の中に「水」に纏わるイメージが希薄なものとして感じられていたからかも知れない。

 

この西部劇映画の中で、そのように「水」のイメージが喚起される場面は決して多い訳ではない。最も過剰で印象が強いのは、終盤のアンソニー・クイン演じるモーガンが死ぬその場面で、モーガンが絶命した瞬間から何故かしら突如として雷鳴が轟き始め、ほどなくしてモーガンの遺体が「フランス宮殿」の中に運び込まれ、ヘンリー・フォンダ演じるクレイがそこに火を放つと、それに呼応するようにワーロックの町の上に激しい雨が降り始める。

それが映画である以上、場面の背景となる天候だとて無作為のものとは言えない筈で、だからその場面でのその雨の降り方とはいったいなんなのかと思わされることにもなるのだが、単に感傷的な意味合いでモーガンの死に際する涙雨と言うには勢いは激しく、しかしやはりそれ以外にはその雨の由縁らしき文脈も見つからず、だからその雨の降り方、突発的な過剰さは、この西部劇映画の中の作劇的な特異点のようにも見えてくる。

 

モーガンの死を弔うようにクレイが火を放ち、そして燃え上がる「フランス宮殿」の建屋を前に、町民の一人が「給水馬車を回せ!」と呼びかける。火を消すには水が必要なのだが、その水はしかしすぐに降り出す激しい雨によって十分に贖われることになる。

雨は天から降るもので、雨と共に訪れる雷の轟きや閃きは、その天にあるものの力の発現のようでもある。モーガンの死に際してその場に集まった皆に対して、クレイは「歌え!」と叫んで、讃美歌を歌わせる。その讃美歌は「千歳の岩に」という曲らしいが、その歌詞には、

 

Rock of Ages, cleft for me
let me hide myself in thee
let the water and the blood
from thy wounded side which flowed
be of sin the double cure
save from wrath and make me pure

 

とあり、「(キリストの傷から流れでる血と水とによって罪から清めて…)」というようなことが歌われている。即ちそこでは血と水とが同一的なものとして歌われているのだが、だとすればその場面での天から降る水であるところの雨は、天から降るキリストの血であるとも言えるのかも知れない。この血と水との同一視は、じつは映画の序盤にもさりげなく描かれていて、それは悪党の一人に恣意的に撃ち殺された床屋の男が敢え無く頽れると、その背後にあって撃ち抜かれた樽の二つの弾痕の穴から水が流れ出す、というものとして示されてある。その場面の描写の一つの由縁は、製作当時のヘイズ・コード由来の抑制された代替表現でもあったかも知れないが、飽くまで血=水という理解に則るなら、モーガンの死に際して降り出す激しい雨は、単に感傷的な涙雨と言うよりは、クレイがワーロックの町民達に向ける激しい反意の雨だったのかも知れない。

 

西部劇の終わりの時代の西部劇であるらしいこの映画は、西部劇的な時代的、社会的な背景が本質的にその過渡期性にあることを示しているようにも見える。

言わばそこにあるのは、「正義なき力」と「力なき正義」の対立であり、言い換えればそれは「無法」と「法」の対立でもあり、その対立の過程は同時に私的闘争が公的闘争とのせめぎ合いの中で潰えていく時代的、社会的な変遷の過程でもある。

たとえば、銃を携えた者同士が正対して睨み合う西部劇の定型的な場面に於いて「銃を抜け」という決まり文句が意味を持つのは、相手に銃を構えさせてその攻撃の意思を判然とさせることによって、自分がそれに反撃することの正当性を担保する為であって、だからこそ実際的な技能として「早撃ち」もまた意味を持つ。そんな正当性の担保が必要なのは、社会が無法的とは言え完全に無法である訳でもないからで、即ち「公的」な名分があれば「私的」な闘争もそれだけでは裁かれないからだ。銃で撃ち合うという、その西部劇的な定型的なアクションにあっても、それは闘争の「私」性と「公」性との相反の中にあってこそ有機的なものとなる。

 

ワーロックの町が、やがて公的な秩序に自立し始めるとき、私的な権勢をふるうものは放逐される。「会議が好きな連中だ」とモーガンに揶揄されていた町民達が、自分達で銃を持って立ち上がるという過程を経て実現されるそれは、確かにアメリカ的ではあるように見える。だが一方で、放逐されるクレイには、言わば自身の代替的な役回りとして死ぬことになったモーガンの存在がある。クレイとモーガンとの独特な親密性は、衆人の理解など及ばないものとして、むしろどこまでも私秘的に担保される。その私秘性は西部劇的な、もっと言えば映画的な主人公像の本質的な見えざる核なのではないか。

モーガンの死に際して、まるで天の怒りか哀しみのような激しい雨が降り落ちるのも、その見えざる核の瞬間的な可視化であり表象でこそあって(しかし殊更意味ありげな象徴などではなく)、それだけのものを媒体とすることでしか変わるものも変わらない。ジョニーが非力であってもクレイと対峙することで、即ち飽くまで個としての相克を回避しないことによって、変わるものが現実に変わる。映画が描くのは、その見えざる核だということ。