映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『理大囲城』(2020/香港/香港ドキュメンタリー映画工作者)

炎と煙、放水と雨傘、発煙弾とガスマスク、火炎瓶と弓矢とゴム弾、「四面楚歌」や「十面埋伏」、バリケードとレーザーポインターとが、昼と夜の闇と光の中を目くるめく、目まぐるしく交錯し、その最中で走り抜け、駆け回り、突破を試みる学生達と、それを押し包み、捩じ伏せ、逮捕しようとする警官隊との熾烈なせめぎ合いを目撃させられると、「わあ、映画だ」と正直まず感嘆してしまう。

そう、映画だ。『理大囲城(Inside the Red Brick Wall)』。タイトルは最初の夜の抗争が明けた朝、仰角の校舎のカットに静かに挿入される。

 

2021年の山形国際ドキュメンタリー映画祭ではオンライン上映され、約1年後の2022年には再び2023年映画祭のプレイベントとして今度は劇場上映された。テレビ画面に表示されたその映画も映画には違いなかったが、映画館の中ではよりその映画の「映画的」密度はいや増していたように感じられた。数多のカメラによって取材されたその現場の否も応もない(否も応もなくなっていく)「空気」の厚み、その伝播性を強くしていたように思われた。それは、それがやはり「映画」足り得ていたからなのではないか。

 

しかし、何を以て一本の映画を殊更「映画足り得ている」などと言えるのか。この映画の場合なら、写し取られ映し出される状況そのものがもとより「映画的」なんだとは、やはり言えるのではないか。極めて限定された時間や空間の中に、(主題的足り得る)社会の縮図的な集団と集団のせめぎ合いの構図が生じ、それが物理的な物や人に於けるアクションの具体的な交錯として表出される。そしてはたまた、集団内に於ける不可避的な分裂や対立や集散が、劇的な言語的表象と共に立体的に表出される。

 

とは言え、写し取られ映し出される状況が映画的だったとしても、むろんそれだけで映画は出来上がらない。

そこでこの映画がまさにこの映画として抜き差しならない映画的な特徴としてもつのは、その複数性を超えた無数性としての被写体と視点の交錯と、それにも関わらず統覚的にまとめ上げられた素材のアクチュアルな編集の妙なのではないか。

この映画は素朴に想定してみても、たとえ複数的であったとしても、単に特定の被写体と特定の視点とでは到底構成され得なかっただろう。その様であれば、当然端的に体制当局の強圧的な検閲なり暴力的な妨害なりに容易に捕捉され抑圧されてしまっただろうし、カメラが当たり前の様にその場その場で事態の推移の中に臨在し続けることだって出来なかったに違いない。

 

つまりそれは、カメラの視点が無数に並立することで初めて成立する映画だということだ。それは体制的な視点が何かと巨視的な単一の視座、その物語をプロパガンダしたがるのとは対照的だ。だいたい本来的に「物語」は一つではない。それは人の数だけある。人の数だけある物語が、ある時間ある空間に限定的に凝縮されれば、それは束の間複数的な物語となり、複数的な物語はその枝葉としての物語の無数性を可能性としてその細部の中に担保、胚胎しつつ、飽くまでその時間その空間を限定的に表象することになる。

 

とは言え、この映画を構成した映像を撮影している無数のカメラ、あるいはその映像の中に写し取られ映し出された他の無数のカメラは、恐らくは等しく警察などの体制当局へのプロテストとして廻されていた筈で、だからその限りではそれは自ずから統覚的な集団性を保持していた。故にこそ無数の視点はそれでも一本の映画という枠内に収束し得たが、と同時にそれは目的的になんらかの主義的主張に向かって廻されていたものでもなかったから、その事態に於ける主な被写体となる集団、その群像模様のあれこれの側面を率直に表出することも出来た。この映画はだからこそ飽くまで「プロパガンダ」ならぬ「プロテスト」の映画に留まるし、また、留まることが出来ているとも言える。

 

ラストカットとしての、空っ風に吹きさらされて惑う様に揺らめいている銀色の防水服(?)のショットは、何やら感傷的でまた象徴的にも見えて、その審美性はともすれば記録映画としてのこの映画の強度を損なうものとも言えるかも知れないが、そのくらいな自己劇化の感性にさえ何やら物言いをつけるような資格は、ただ取り敢えずその映画を見ていることしか出来ない自分の様な者にはありはしない。その映画は、そんな彼我の距離感への自覚を喚起するような映画でもある。

大人達の説得に応じて仲間の難詰の声を背にしながら大学を出て行く者達を、不安げに見送るしかない若者二人。その様子を斜め上から見つめ続けているカメラの視点。溶暗でその場面は終わる。その様にしか終わることは出来ないだろうという意味で、それは紛れもなく「映画」の場面だった。