映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」

●第一話『戦場までは何マイル?』

冒頭の北極基地強襲の場面からして、見る者の身体感覚に訴求するようなMS戦闘を巡るアクション、ギミック、あるいは画面のレイアウト、即ち演出があるように見える。

水面から垂直に飛翔し、そこから滑走しつつ氷上に落着するハイゴッグは、のたうつ様に伸縮する左腕部とロケット弾の格納された右腕部とで、のっけから程よくギミックの搭載されたキャラクターとして動き始める。またそれに対するジムに於いても、腕部に被弾すると制御を失ったマシンガンが逆に自機のコクピットを撃ち抜いてしまうなど、人間の身体的な構造に相似しつつ同時にマシンでもあるMSのありようが「リアル」に活かされる。この「コクピットを撃ち抜いてしまう」という描写は無論意図的な演出で、サイクロプス隊のガルシアは動きを止めたジムに止めを刺すようにそのコクピットを撃ち抜いてニタリと冷たく笑う。そして一連の戦闘場面は、シャトル発射へのタイムリミットに向けてカウントダウンされることで、サイクロプス隊のアンディの戦死という結果に至る。戦場の無残がシリーズ全篇の冒頭に置かれることは、当然作劇的な意味での意図的な設計になる。

そこから続き一転しての日常的な生活世界での描写に於いては、いざとなれば金的蹴りするようなこしゃまくれた女子とか、何気なく描写される教室の風景にもディテールがあって、ドラマの漠然とした背景や、その起因足り得る要素が無理なく収められているように見える。アル少年と父母との関係、あるいは父と母の関係、また旧知の御隣さんであるクリスとの関係のありようも、ほんのちょっとした編集や漠然とした間(ま)のタイミングに於いて、演出的に素描されている。ディテールとしてスマホタブレットも見当たらない世界線になっているのは制作年代的に仕方ないが、そんなものよりも家族や少年少女の家庭や学校での日常生活に於ける機微を小さくとも細やかに掬い取るような脚本は、さすがに『オネアミスの翼』を送り出した人の手によるものと言えるのかも知れない。

そして何より、アル少年が戦争そのものと遭遇する瞬間となった学校の校舎に飛来するザクとの場面は、小さなアル少年と大きなザクとが正に互いに「目と目が合う」瞬間として描写されていて、物語の起点が決定的に描写されるという意味で、演出的にも決定的ではある。

宇宙世紀ガンダムシリーズの初スピンオフ作品として、この作品で事実上はリファインされたデザインで登場した旧来MSのバリエーション機体があったことで、その後の作品でもバリエーション機体が数多く登場してしまう契機となったとは言えるのかも知れないが、この作品に於いては主題的にもMSが人間の日常的な生活世界と地続きに存在する物体としてよりリアリスティックに描写される必要があり、たとえばMSの足元の描写をする為にだけでも、旧来のものよりもっと精密な設定が必要とされたのだろうから、設定のリファインは仕方のないことだったのではないか。

 

●第二話『茶色の瞳に映るもの』

スマホタブレットもない世界線なので、個人撮影の映像はハンディタイプのカメラで何やら小さなディスクみたいな媒体に記録されるらしい。しかしその小さなディスクをバーニィが持ち帰ったことで、彼自身がサイクロプス隊に編入されることになるのだろうと思えば、作劇的には筋が通っているが、それだけに物語的な因果を思わされなくもない。カメラへの記名を見てバーニィはアルの名前を知る。自分の持ち物に自分の名前を記すというのは如何にも子供がさせられていそうなことで、それだけの子供に過ぎないアル少年は戦闘による街の惨状を目にしても、それと自分が遭遇したMSパイロットとのイメージは繋がらない。

それだけに、そんなアル少年にとってより大事に映るのは、本物のパイロットの徽章であったりする。第一話から続くこの徽章というディテールは、作劇的な媒体として機能する。最初は本物か偽物かも判らない友人の持ち出した徽章がアル少年の行動の契機として端緒に置かれて、まだ人を一人も殺したのこともない新兵バーニィサイクロプス隊に編入されたことを示すのもやはり特務部隊の徽章であったりする。そのバーニィの「まだ人を一人も殺したことのない新兵」ぶりは、カムフラージュとして用意された死体につい言葉を掛けたり、それが次の瞬間に工作として無残に狙撃され破壊されることに素朴に震えあがる描写に端的に示される。

バーニィの偽装艇が宇宙港に辿り着き積み荷を搬入しようとする場面で、シュタイナー隊長が特務部隊の熟練者らしい機転を利かせた演技で窮地を脱する。中小企業の経営者とは、如何にも独立的部署の中間管理職に通ずる役回りではある。このあたりの機微が場面の設定や描写の中にあるかないかでも、作劇的な訴求力は恐らく変わってくる。

 

●第三話『虹の果てには?』

アル少年は、それでも物語の主人公らしく、よく機転が利く。轢き逃げの被害者のフリをして車の行き先を突きとめたり、危険な状態を察して嘘八百の演技をしてみたり。だがこれは、そういう人物だからこそ物語の主人公になれるというよりは、物語の基軸としてある人物を置こうとすれば、作劇的な必然としてそうせざるを得ないのだろう。

そしてそのアル少年にシュタイナー隊長が託すのは、やはり特務部隊の徽章であったりする。その徽章は盗聴器つきだが、バーニィから貰い受けた徽章は、アル少年と戦争を、そしてまたアル少年とバーニィとを否応なく結びつける縛りともなる。

ふとしたきっかけで知り合うことになったバーニィとクリスの場面。アルとクリスが再会した時もそうであったように、そこでも束の間のティータイムならぬコーヒータイムがもたれる。(脚本がその人だからか、つい『オネアミスの翼』のシロツグとリイクニのティータイムを想い出してしまう。)ともあれそこにコーヒータイムが置かれることで、心理的な落ち着きの呼吸が出て、その場に会する者達の打ち解け合う様子が端的に見る者にも共有されることになる。またそこでもバーニィはアルと兄弟だという嘘が吐かれることになるが、その咄嗟の嘘がむしろ二人の間柄をより親密に結びつけるのも真に自然な作劇的なりゆきで、けれどそこに紋切り型と捨て置けない心理的内実が感じられるのは、やはりアルやクリスの家庭的なディテールに於ける人物描写が浮ついていないからだろう。

バーニィとアルの連邦軍の秘密基地への潜入場面では、第一話で何気ない形で少しだけ登場していた、言わばモブでしかない人物が発見のカギになる。このカギの配置の何気なさがとても秀逸。あまりにも何気ない形だっただけに、なぜかアル少年と一緒にカギを発見した気持ちになる。また、その後には二人がコロニーの外壁を伝っていくという描写があるが、この場合、科学的な考証として遠心力が実際にはどう働くのかは少し気になる。やはりコロニーの外側に向かって、宇宙空間に向かって「落ちて」いくことになるのだろうか。

 

●第四話『河を渡って木立を抜けて』

またしてもちょっとしたきっかけでバーニィとクリスが束の間行き会う。二人はそこで初めて「バーニィ」と「クリス」という打ち解けた略称で呼び合う仲になるが、後の展開を思えば、それが二人の今生の別れとなる。そこでバーニィとクリスが互いに互いを見合う場面がカットを交錯させて瞬間描かれるが、そのなんでもないような若い男女のささやかな交情がそれでも印象的なのは、二人を密かに見守るクリスの両親の姿が一瞬描かれるからでもあるように思える。それはそのまま物語を見る者の視線でもあるが、つまりそれは、本来ならそのように見守られる幸福な関係、その可能性がそこにある、ということでもある。

教室でのアルと級友達のやりとりは、大人達の言う社会的な意味での敵味方の別をあっさり受け容れてしまう子供らしい素朴さがありがちで、またそれに一人で反論するアルをフォローするのが優等生のあの女の子だというのもありがちだが、それは子供同士なりの人間関係、即ち社会関係の機微を描くに的確ということで、決してつまらない紋切り型にとどまるものではない。

情報屋とシュタイナー隊長とのやりとりは、隊長が「このコロニーはいいコロニーだな」とこぼすのが印象的だが、恐らくはそこで既に核ミサイル攻撃の作戦を聞かされたのだろう隊長は、そんな自棄な作戦が罷り通る事実を聞いてこそ「ジオンは負ける」と確信したに違いなく、その一方でそんな愚劣から本来なら守られるべきものがそこにあるからこそ「いいコロニー」という述懐にも繋がるのだと思われ、飽くまでも暗に含みをもたせる形でそんな描写がなされることは、物語世界に人間的な厚みをもたらす。

人間同士の間に生まれるドラマ的なものの本質が人間同士の対話にあるとして、それは目に見えるものの中で目に見えないものがやりとりされることであって、その中で自身に語れることと語れないこととの表裏の相関の中にその人物は浮かびあがるのだから、その意味でのドラマ的なものは、ここにはきっちり描かれてある。

計画が発動し、ケンプファーが起動する。街中に突如出現する大きなMSの姿は、真っ先に悲鳴をあげる一般の女性の姿と共に描写される。このシリーズで徹底しているのは、大きなMSの足元に必ず走り回り逃げ惑う小さな人間達の姿を描写することだ。それは本伝のガンダムにもあるが、このシリーズではそれが徹底している。そして起動したケンプファーは、繁華街の通りの中を怪獣映画の怪獣よろしく突き進む。

しかしアレックスの前に辿り着いたケンプファーは、思わぬことに不意を突かれた形で敢え無く撃破される。アレックスのガトリング砲にケンプファーの機体は踊らされるように撃ち抜かれ、そのコクピットの中ではミーシャのウィスキー缶もまた踊らされ撃ち抜かれる。戦死するミーシャ自身の顔も声も敢えて描かれない。あるいは彼は、そんなものを遺す暇もなく見る影もなく殺されたのかも知れない。そのミーシャが常に口元に運んでいたウィスキー缶が、その無残を換喩的に表現する。演出のアイデアとしては常套だろうが、しかしこの手の換喩的な表現はやはり効果的でもある。ここでもやはり、それによって戦場の現実の無残こそが際立つ。

 

●第五話『嘘だといってよ、バーニィ

グラナダにあって、ルビコン計画の立案者、指揮者のキリングが上官であるグラナダの基地司令官を呆気なく殺害する。そんな暴挙が安易になされてしまうのは、戦争の趨勢がジオン軍の敗北に向かって末期的な様相を呈しているからに違いない。

しかしそんな暴挙に安易に訴求出来るようには、自他の狭間にあってより現実に誠実であろうとする人間達は答えを出せない。アルやバーニィ、クリスの中に生じる葛藤を丹念に描写することに専念する回。物語を人間同士のドラマとして描き出す効用とはこういうものだろう。何らかの正しさを教条的にプロパガンダする為の手段としてではなく、過程そのものの意味、その何とも言えない厚みを描くこと。人間が取り敢えずにせよともかく答えを出すのは、自分自身が現実に拠って立つ否応ない立場があるからで、それは「絶対に正しい」訳ではない。偶然行き会った級友達の励ましに、その顔が何とも言えない表情にゆがむのをこらえきれないアル。もとよりそれは「何とも言えない」としか言い様がない。

そしてバーニィに本当の決心を迫るのは、誰かから直接的に向けられた尤もらしい訴えや諭しではなく、通りすがりの行きがけに間接的に耳にしてしまった、本来は自分と何の関係もない若い女性の恋人との別れ話なのだった。それはつまり、バーニィ自身の内奥にある良心の声として響く。本当の決心は、誰かの為ではなくバーニィが自分自身の為に見出した、それはそういうことなのだ。

ガンダムシリーズにして遂にMS戦闘の場面が一つもない。だがこのシリーズにあってはまさにこの挿話こそがキモになる。

 

●第六話『ポケットの中の戦争

 バーニィとアルは破損し放棄されたままのザクを修復しに掛かる。普通に考えれば一介のパイロットがMSの修復なんてことを独力で出来るものなのかどうかは疑問だが、思えばバーニィの個人的来歴は物語の中では何も語られない。恐らく作劇的には、敢えてバーニィの個人的来歴を明示しないことで、作劇的な合理化と逆説的な背景の深化を考えたのかも知れない。それは見る者の想像力に委ねてもよい部分で、むしろ委ねることで却って奥行きが出る。彼は、この物語の中で行動する通りの、表裏のないそのままの人物だということ。それであって過不足はない。

バーニィとアルの手で修復されゆくザクは線を引く雨粒にそのボディを打たれる。雨粒に打たれることで、物体的実在としてのMSの機体の印象が強まる。雨や風や、人の姿と共にあるMSのイメージ。

そしてバーニィのザクは、単独でクリスのアレックスと対峙して決着をつけようとする。アレックスの武装が右腕部のガトリング砲500発だけ残存していて補充もされていないというのは、終戦間際のドタバタでそこまですら手が回っていないということなのかも知れない。

止めの一撃で、クリスのアレックスがバーニィのザクのコクピットを貫くのは、本伝の第一話で初戦に立ったアムロガンダムが、コロニーへのダメージを恐れて対するザクのコクピットを貫いてみせたことの反復になる。それと向かい合ったバーニィのザクがアレックスのヘッドを吹き飛ばすのは、バーニィの目的が飽くまでもアレックスの機体の破壊でパイロットの殺害ではなかったことに拠っていたのかも知れない。バーニィのザクの爆発に吹き飛ばされたアレックスは更に左腕部をも失い、言わば本伝の最終話でシャアのジオングと相打ちになったアムロガンダムと同じ形で大破することになる。

いわゆる「ザク」の名称は、設定的にザコキャラであることに由来すると聞くが、多くの無名パイロットが乗ることになった典型的な量産機であるそのザクが、最後の最期にガンダムと相打ちを演じて見せる。「自分が自分でなくなる」ことを自分で乗り越える為に果たされた私闘の果てで。

戦後、アル少年の帽子にはバーニィの遺品である徽章が貼りつけられている。そのアル少年が、学校での型通りな校長の説話に、しかし止めどない涙を一人流し始めるのに第一に気がつくのは、また優等生のあの女の子。たったそれだけのことだが、それだけのことでも、少年が経験を通じて人間として大人になった(のかも知れない)、ということは分かる。

バーニィが戦いへと向かうのはまずもって自分の為で、クリスが戦いから逃げないのも自分の為で、それはその自分の中に他の誰かがいることではじめて本当の意味をもつ。それを、飽くまで御題目ではなく人間同士の具体的なドラマとして描く。その当たり前のことが、「ガンダム」という作品世界の枠の中で、きちんと作りあげられている。