映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『ミッドウェイ』(2019/アメリカ、中国/ローランド・エメリッヒ)

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漠然と、曖昧に揺らぐ襞状の濃淡が、やがて葦の群生のクローズアップとして画面の中で判然と露わになってくる。そしてその向こうで雁を捕ろうとする網が動いている。

これだけで故なく「映画」だと感じられる。なに故かは本当によくわからないが、確かに。

 

空母は艦載機にとって何よりも欠くべからざる帰還する場所であり、それを喪うことは即ち海の藻屑と消えることに他ならない。そして帰還とはもちろん戻ることであり、またそれを何度でも繰り返すことであり、したがって艦載機の着艦=帰還の場面をヴァリエーションをつけて繰り返し挿入することは、何より物語映画の作法として正しい。

だからこそ、これもまた反復される急降下爆撃の航空アクションも、映像的な構図としては一見似通うかに見える特攻とは似て非なる、飽くまでも帰還への意志を大前提としたものとして描く。 そしてその一方で、炎上する自軍空母を眼下に見やりつつ計器が示す自機燃料の枯渇を見る日本兵操縦士の図で、帰還する場所=空母を失うことの現実のシビアさをも暗に描く。

 

米日の主要キャストも含めて、この映画では誰もが本質的にモブのようにそこにいる、ように見える。この顔はこの人、この人はこの顔、とは撮られていないように見える。それは歴史的戦場に於ける実在の群像を捉える姿勢の表れのようで、それがこの映画なりの歴史的事実へのリスペクトでもあるのではないか。言わば、モブによるモブの為の戦記映画。

 

撃墜され特攻的に自艦に突入してきた敵機に「米人にそんな(特攻するような)度胸はない」と言う南雲。殊更主義主張を叫ばせなくても、さりげない一言にともすればその人物の思想信条さえ垣間見させるようなダイアログは、巧みな脚本の典型ではないか。

(「米人にそんな度胸はない」という台詞は、つまり「日本人にはそんな度胸がある」との意味にも聞こえる。だが特攻を戦術として強いるなどという外道の前には、無論「度胸」などという愚劣な精神論は問題にならない。)

またあるいは、中国に不時着した米爆撃機の機長が、日本機の民地への攻撃を目撃して、その不正義を責めて敵愾心を表すのかと思いきや、曰く「私達の爆撃が状況を悪化させた」と独り言つ。機長が参戦した東京爆撃もまた民地への攻撃だという認識がそこに不意に垣間見える。

各人物が、本質的には人物として際立つことのないモブなのだとしても、ダイアログはそれ自体で響き合い、暗にその意味を示す。

 

「西部劇」への言及もあり、また本篇の作劇構成の基底を貫く「帰還する」という主題故の、ジョン・フォードの召喚なのか。

 空母とその艦載機を巡る、恐らくは「あるある」なものなのだろう細部描写は、単に軍事フェチ的な嗜好というよりは、それでも「人間の舞台」として捉えられた戦場描写としての印象を受ける。ならばとすれば、やはりジョン・フォードの召喚もむべなるかな、とも思える。

(たとえば、敵機を迎撃する艦載の高射砲一つ動かすにしてもあれだけの瞬発的で機敏な複数のマンパワーが必要とされ、尚且つそれがまともな戦力足り得る為にはその操作の熟練さえ必要とされる。機体のちょっとした運動のクセから操縦者の未熟さえ見抜くような熟練指揮者のいる戦場では自然そうなると想像出来る。画面の中で一見モブとして動き回る一人一人の兵士達の一挙手一投足、その言動が、そんな戦場の具体的なイメージを喚起するように出来ている。)

戦場の一見したところの蛮勇が、しかし確かに味方の数十人の命を救ったのかも知れず、その事実について一体誰が何を賢しらに言えるのかと、ジョン・フォードの映画なら時に美しくも悲しくもあるようなユーモアをさえ交えて描くのではないか。襲来する日本海軍の大編隊を見あげて「美しい!」と叫んだ挙句、銃撃されて負傷するこの映画のジョン・フォードの姿は、その映画にあらわされる人となりを通して想い描かれた姿なのかも知れず。

 

20年はリサーチを重ねたというのはどこまで本当の話かは知らないが、確かにこの映画にはそれだけの細部の含蓄はある。この映画の空母の存在が即ち国家の謂いなのは誰にでも判然とする話だし、伏流的主題としては特攻を巡る考察の映画であることもまた同様だ。

米日双方へのリスペクトを意識したような造りは、マーケティング的な配慮でもあろうが、それ以上に歴史的事実そのものへの、またその中で現実に生きて死んでいった人間達への真摯な情理の発露なのではないか。

 

かつての戦記映画には、たとえば戦闘機などの機体から実戦中に撮影された空戦の記録映像をつぎはぎして戦闘シーンを描くものなどがよくあったが、CGで描くと全体の運動の流れをアニメーションのように統括的に描くことが出来てしまう。それを「スペクタクル」と呼ぶのなら、それは仮構された運動の遠大な連続性のイメージのことなのだろう。