映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『理大囲城』(2020/香港/香港ドキュメンタリー映画工作者)

炎と煙、放水と雨傘、発煙弾とガスマスク、火炎瓶と弓矢とゴム弾、「四面楚歌」や「十面埋伏」、バリケードとレーザーポインターとが、昼と夜の闇と光の中を目くるめく、目まぐるしく交錯し、その最中で走り抜け、駆け回り、突破を試みる学生達と、それを押し包み、捩じ伏せ、逮捕しようとする警官隊との熾烈なせめぎ合いを目撃させられると、「わあ、映画だ」と正直まず感嘆してしまう。

そう、映画だ。『理大囲城(Inside the Red Brick Wall)』。タイトルは最初の夜の抗争が明けた朝、仰角の校舎のカットに静かに挿入される。

 

2021年の山形国際ドキュメンタリー映画祭ではオンライン上映され、約1年後の2022年には再び2023年映画祭のプレイベントとして今度は劇場上映された。テレビ画面に表示されたその映画も映画には違いなかったが、映画館の中ではよりその映画の「映画的」密度はいや増していたように感じられた。数多のカメラによって取材されたその現場の否も応もない(否も応もなくなっていく)「空気」の厚み、その伝播性を強くしていたように思われた。それは、それがやはり「映画」足り得ていたからなのではないか。

 

しかし、何を以て一本の映画を殊更「映画足り得ている」などと言えるのか。この映画の場合なら、写し取られ映し出される状況そのものがもとより「映画的」なんだとは、やはり言えるのではないか。極めて限定された時間や空間の中に、(主題的足り得る)社会の縮図的な集団と集団のせめぎ合いの構図が生じ、それが物理的な物や人に於けるアクションの具体的な交錯として表出される。そしてはたまた、集団内に於ける不可避的な分裂や対立や集散が、劇的な言語的表象と共に立体的に表出される。

 

とは言え、写し取られ映し出される状況が映画的だったとしても、むろんそれだけで映画は出来上がらない。

そこでこの映画がまさにこの映画として抜き差しならない映画的な特徴としてもつのは、その複数性を超えた無数性としての被写体と視点の交錯と、それにも関わらず統覚的にまとめ上げられた素材のアクチュアルな編集の妙なのではないか。

この映画は素朴に想定してみても、たとえ複数的であったとしても、単に特定の被写体と特定の視点とでは到底構成され得なかっただろう。その様であれば、当然端的に体制当局の強圧的な検閲なり暴力的な妨害なりに容易に捕捉され抑圧されてしまっただろうし、カメラが当たり前の様にその場その場で事態の推移の中に臨在し続けることだって出来なかったに違いない。

 

つまりそれは、カメラの視点が無数に並立することで初めて成立する映画だということだ。それは体制的な視点が何かと巨視的な単一の視座、その物語をプロパガンダしたがるのとは対照的だ。だいたい本来的に「物語」は一つではない。それは人の数だけある。人の数だけある物語が、ある時間ある空間に限定的に凝縮されれば、それは束の間複数的な物語となり、複数的な物語はその枝葉としての物語の無数性を可能性としてその細部の中に担保、胚胎しつつ、飽くまでその時間その空間を限定的に表象することになる。

 

とは言え、この映画を構成した映像を撮影している無数のカメラ、あるいはその映像の中に写し取られ映し出された他の無数のカメラは、恐らくは等しく警察などの体制当局へのプロテストとして廻されていた筈で、だからその限りではそれは自ずから統覚的な集団性を保持していた。故にこそ無数の視点はそれでも一本の映画という枠内に収束し得たが、と同時にそれは目的的になんらかの主義的主張に向かって廻されていたものでもなかったから、その事態に於ける主な被写体となる集団、その群像模様のあれこれの側面を率直に表出することも出来た。この映画はだからこそ飽くまで「プロパガンダ」ならぬ「プロテスト」の映画に留まるし、また、留まることが出来ているとも言える。

 

ラストカットとしての、空っ風に吹きさらされて惑う様に揺らめいている銀色の防水服(?)のショットは、何やら感傷的でまた象徴的にも見えて、その審美性はともすれば記録映画としてのこの映画の強度を損なうものとも言えるかも知れないが、そのくらいな自己劇化の感性にさえ何やら物言いをつけるような資格は、ただ取り敢えずその映画を見ていることしか出来ない自分の様な者にはありはしない。その映画は、そんな彼我の距離感への自覚を喚起するような映画でもある。

大人達の説得に応じて仲間の難詰の声を背にしながら大学を出て行く者達を、不安げに見送るしかない若者二人。その様子を斜め上から見つめ続けているカメラの視点。溶暗でその場面は終わる。その様にしか終わることは出来ないだろうという意味で、それは紛れもなく「映画」の場面だった。

『紳士は金髪〈ブロンド〉がお好き』(1953/アメリカ/ハワード・ホークス)

 

映像の作成がごく簡易化された現在以降にあっては、基本的にステージ上で演じられる演劇や音楽や、あるいはミュージカルやオペラ、それらの記録としての映像作品は数多制作され、残存していくことになるだろうが、それでも映画はともあれ映画として、何はともあれあちこちで再映され、再生され続けていくのではないか。何故ならば映画は、何かしらの記録的な媒体である以上に、本来的に映像そのもの、即ちイメージそのものの媒体として制作される筈のものだからだ。

 

この映画はとにかく画面に老若男女を問わず人間が多く出て来る。つまりモブシーンが多い、と言うよりモブシーンばかりの映画だ。それは歪に思えるほどに徹底していて、たとえば終盤のミュージカル場面では、舞台上のシャンデリアや燭台や街灯さえ生きた人間の女性達が演じていたりする。一歩間違えば、あるいはこのままでも悪趣味的にさえ見えるこの映画の、この「肉林」ぶりとは、いったいなんなのか。ローレライを演じるマリリン・モンローは確かに肉感的なスタイルの持ち主だが、だからこその肉体性、物体性の強調なのか。

 

たとえばモンローが、小さな窓に腰をつかえさせる場面。それはローレライの一見頭足らずな風の可愛らしさのキャラクター描写として以上に、窓に挟まれて上半身と下半身に分断されたりタオルケットで首だけになったりすることで、被写体としてのモンローの身体を物体的イメージとしてあられもなく露呈させてしまう。そんなことが為されるのは、少なくともこの映画のモンローがまさしく物体的イメージとしての偶像に他ならないからで、尚且つそれが造られた虚像であることは、法廷の場面でドロシーを演じるジェーン・ラッセルがモンローが演じるローレライのキャラクターを巧妙にコピーし切って演じ倒してしまう展開に象徴的に表現される。

しかしその一方でこの映画にはクローズアップは少ない。クローズアップは映画に於いて物体のイメージを世界から一旦切り離して即物化、換言すれば「そのもの化」し、映画の説話的なパーツ足らしめる為の基本的な手管だろうが、この映画のとくに人物に関して、表情の、少なくとも心理表象としてのそれは全くないと言える。だのに演者達の、とくに女性的な女性演者達(ミュージカルの舞台装置化させられた女性達も含めて)の身体は、中距離的な客観的な画面の中でグロテスクなまでに即物化される。

それはつまり、この映画はこの物語を、とりも直さず感傷的なメロドラマとしてではなく過酷なコメディとして描き出しているということだが、それを強いるのは、たとえば女性の髪の色でそのキャラクターを分類する様な映画のキャメラ、男性的な識別の視線であるとは言える。

 

「あの二人が溺れたらどっちを助ける?」

「二人とも(自力で)浮くさ」

(日本語字幕)

乗船しようとするローレライとドロシーを見遣ってオリンピック選手の男二人が交わすセリフ。「二人とも(自力で)浮くさ」(英語テキスト原文では”Those girls couldn't drown.” で、より直訳的に翻訳すれば「彼女達は溺れることが出来ないさ」となる)は、つまり二人の女性の肉体的な優位性(豊満さ)への素朴な賛歎とも聞き取れる。

この映画のキャメラは飽くまでローレライやドロシー(を演じるモンローやラッセル)の肉体性を被写体として捉えるものであっても、それを撥ね返してくる様な被写体そのものの強さには率直なリスペクトをも投げ掛ける。ドロシーは法廷の中で、賢しらに虚飾を突いて暴こうとする男達の追求を虚飾の貫徹と真情の告白に於いて凌駕してしまうし、ガスの父親を前にしたローレライも、自分自身のキャラクターをめぐる虚実の皮膜をあっけらかんと是認してしまうことで、むしろ「父親」を呑んで掛かる。

そんな自分達の優位性を活用して目的を達してしまう彼女達のアクションを描くことは、彼女達の「男前」ぶりへのリスペクトの感覚ありきのことだろう。(「男前」という表現がそこに当て嵌まるように思えてしまうのは言葉のふくむ綾ではあるにせよ。)

 

「紳士は金髪〈ブロンド〉がお好き」とはまるで悪しきルッキズムそのものだが、映画はもとよりイメージの媒体でこそあって、つまりは一面残酷なルッキズムによる世界でもある。

この映画でさかんに歌われる「ダイヤモンド」は、まさにそんな目に見える美貌や冨貴の象徴的なルックではあるだろうが、それに貫徹して執着するローレライ=モンローのキャラクターは、むしろその「ダイヤモンド」を半端なルッキズムの象徴から不変的な真情(愛とか心とか、それはなんでもいい)の表徴と化さしめる様に思える。一見すれば外化されたものでしかないあるイメージを、むしろ即物的に徹底的に貫徹することでイメージそのものを内実として充填させる。それは映画というものの顕著な在り様でもある。

物語の終幕でもとより類型も願望も違う二人が共にめでたく結婚式を迎えるのも、想いの純粋さに於いて、またその成就した幸福に於いて、二人にはなんの違いもない、ということでもあって、だから二人は二人ともその指に「ダイヤモンド」をはめている。

 

王子様とお姫様が結婚してめでたしめでたしとなる「お話」は、それは旧い。旧いお伽噺だ。しかしこれは映画だから、物語に一応の終わりを付さねばならなかっただけだ、とも言える。

その一応の結末に至る為にローレライが見せた貫徹された執着と、それを実現する為の表裏ない情熱と巧妙こそ、その物語が描いた本当のものだろう。それはだから、性差の話というよりは、常人と超人の差の話とも言えようものだ。

無論、現実の世間にそんな超人はいないし、だからそんな強さを現実の人間達に求めることも出来ない。そのことは、それを演じた生身のマリリン・モンローがついにはその偶像化の抑圧に殺されてしまった(のであろう)事実が示してしまっている。

だがそれでも、偶像は映画の中で生きている。命を得た偶像が生きて動き回ってこその映画だし、それは現実の似姿でありながらやはり似姿なんかでは全然ないものとしてそこにある。

 

映画館でリバイバルされたものとVODで配信されているものを両方見たが、リバイバルされたものでは鮮やかに識別され得た衣装の深い蒼味が、配信されているものの方では薄黒く潰れてしまっていた。

また字幕の翻訳も双方で結構異なっているが、これはどちらも箇所により一長一短があり、総じて意訳的だと話の流れが判り易いがセリフ自体の細かいニュアンスや示唆的な含蓄が失われる傾向にあった。

この映画のオリジナルのテキスト自体は、英語の言葉遊びも多く、細かなニュアンスや示唆的な含蓄が大事な類のものだろう。

(”Those girls couldn't drown.”のセリフは、二種類の日本語字幕で「二人とも浮くさ」とも「誰もが二人を助けるさ」とも訳され、某日本語吹替では「あの胸では沈めないさ」ともなっていて、確かに解釈によってどちらでもあり得る様で、コケティッシュな女性的魅力というものにまつわる相反的な機微をも滲ませている。)

『ワーロック』(1959/アメリカ/エドワード・ドミトリク)

 

冒頭、馬上の悪党達が向かうワーロックの町の、砂地の辻が映し出されると、そこに一台の馬車が進む姿が見える。見れば荷台の大きな樽の後部から幾筋もの噴水を散らしているそれは、散水馬車、というらしい。

現在でも普通に見られる散水車と同じ用途の馬車バージョンであることはすぐに判るが、西部劇の舞台になるその時代、その場所にそんなものが出て来ることは、ちょっとした意外の感をもよおさせる。考えてみれば確かにとても埃っぽい環境であっただろうその時代、その場所でそういうものが運用されてあることは理の当然なのかも知れないが、それでもそこにそんな意外の感を漠然と抱いてしまうのは、それだけ西部劇一般とその舞台の印象の中に「水」に纏わるイメージが希薄なものとして感じられていたからかも知れない。

 

この西部劇映画の中で、そのように「水」のイメージが喚起される場面は決して多い訳ではない。最も過剰で印象が強いのは、終盤のアンソニー・クイン演じるモーガンが死ぬその場面で、モーガンが絶命した瞬間から何故かしら突如として雷鳴が轟き始め、ほどなくしてモーガンの遺体が「フランス宮殿」の中に運び込まれ、ヘンリー・フォンダ演じるクレイがそこに火を放つと、それに呼応するようにワーロックの町の上に激しい雨が降り始める。

それが映画である以上、場面の背景となる天候だとて無作為のものとは言えない筈で、だからその場面でのその雨の降り方とはいったいなんなのかと思わされることにもなるのだが、単に感傷的な意味合いでモーガンの死に際する涙雨と言うには勢いは激しく、しかしやはりそれ以外にはその雨の由縁らしき文脈も見つからず、だからその雨の降り方、突発的な過剰さは、この西部劇映画の中の作劇的な特異点のようにも見えてくる。

 

モーガンの死を弔うようにクレイが火を放ち、そして燃え上がる「フランス宮殿」の建屋を前に、町民の一人が「給水馬車を回せ!」と呼びかける。火を消すには水が必要なのだが、その水はしかしすぐに降り出す激しい雨によって十分に贖われることになる。

雨は天から降るもので、雨と共に訪れる雷の轟きや閃きは、その天にあるものの力の発現のようでもある。モーガンの死に際してその場に集まった皆に対して、クレイは「歌え!」と叫んで、讃美歌を歌わせる。その讃美歌は「千歳の岩に」という曲らしいが、その歌詞には、

 

Rock of Ages, cleft for me
let me hide myself in thee
let the water and the blood
from thy wounded side which flowed
be of sin the double cure
save from wrath and make me pure

 

とあり、「(キリストの傷から流れでる血と水とによって罪から清めて…)」というようなことが歌われている。即ちそこでは血と水とが同一的なものとして歌われているのだが、だとすればその場面での天から降る水であるところの雨は、天から降るキリストの血であるとも言えるのかも知れない。この血と水との同一視は、じつは映画の序盤にもさりげなく描かれていて、それは悪党の一人に恣意的に撃ち殺された床屋の男が敢え無く頽れると、その背後にあって撃ち抜かれた樽の二つの弾痕の穴から水が流れ出す、というものとして示されてある。その場面の描写の一つの由縁は、製作当時のヘイズ・コード由来の抑制された代替表現でもあったかも知れないが、飽くまで血=水という理解に則るなら、モーガンの死に際して降り出す激しい雨は、単に感傷的な涙雨と言うよりは、クレイがワーロックの町民達に向ける激しい反意の雨だったのかも知れない。

 

西部劇の終わりの時代の西部劇であるらしいこの映画は、西部劇的な時代的、社会的な背景が本質的にその過渡期性にあることを示しているようにも見える。

言わばそこにあるのは、「正義なき力」と「力なき正義」の対立であり、言い換えればそれは「無法」と「法」の対立でもあり、その対立の過程は同時に私的闘争が公的闘争とのせめぎ合いの中で潰えていく時代的、社会的な変遷の過程でもある。

たとえば、銃を携えた者同士が正対して睨み合う西部劇の定型的な場面に於いて「銃を抜け」という決まり文句が意味を持つのは、相手に銃を構えさせてその攻撃の意思を判然とさせることによって、自分がそれに反撃することの正当性を担保する為であって、だからこそ実際的な技能として「早撃ち」もまた意味を持つ。そんな正当性の担保が必要なのは、社会が無法的とは言え完全に無法である訳でもないからで、即ち「公的」な名分があれば「私的」な闘争もそれだけでは裁かれないからだ。銃で撃ち合うという、その西部劇的な定型的なアクションにあっても、それは闘争の「私」性と「公」性との相反の中にあってこそ有機的なものとなる。

 

ワーロックの町が、やがて公的な秩序に自立し始めるとき、私的な権勢をふるうものは放逐される。「会議が好きな連中だ」とモーガンに揶揄されていた町民達が、自分達で銃を持って立ち上がるという過程を経て実現されるそれは、確かにアメリカ的ではあるように見える。だが一方で、放逐されるクレイには、言わば自身の代替的な役回りとして死ぬことになったモーガンの存在がある。クレイとモーガンとの独特な親密性は、衆人の理解など及ばないものとして、むしろどこまでも私秘的に担保される。その私秘性は西部劇的な、もっと言えば映画的な主人公像の本質的な見えざる核なのではないか。

モーガンの死に際して、まるで天の怒りか哀しみのような激しい雨が降り落ちるのも、その見えざる核の瞬間的な可視化であり表象でこそあって(しかし殊更意味ありげな象徴などではなく)、それだけのものを媒体とすることでしか変わるものも変わらない。ジョニーが非力であってもクレイと対峙することで、即ち飽くまで個としての相克を回避しないことによって、変わるものが現実に変わる。映画が描くのは、その見えざる核だということ。

「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」

●第一話『戦場までは何マイル?』

冒頭の北極基地強襲の場面からして、見る者の身体感覚に訴求するようなMS戦闘を巡るアクション、ギミック、あるいは画面のレイアウト、即ち演出があるように見える。

水面から垂直に飛翔し、そこから滑走しつつ氷上に落着するハイゴッグは、のたうつ様に伸縮する左腕部とロケット弾の格納された右腕部とで、のっけから程よくギミックの搭載されたキャラクターとして動き始める。またそれに対するジムに於いても、腕部に被弾すると制御を失ったマシンガンが逆に自機のコクピットを撃ち抜いてしまうなど、人間の身体的な構造に相似しつつ同時にマシンでもあるMSのありようが「リアル」に活かされる。この「コクピットを撃ち抜いてしまう」という描写は無論意図的な演出で、サイクロプス隊のガルシアは動きを止めたジムに止めを刺すようにそのコクピットを撃ち抜いてニタリと冷たく笑う。そして一連の戦闘場面は、シャトル発射へのタイムリミットに向けてカウントダウンされることで、サイクロプス隊のアンディの戦死という結果に至る。戦場の無残がシリーズ全篇の冒頭に置かれることは、当然作劇的な意味での意図的な設計になる。

そこから続き一転しての日常的な生活世界での描写に於いては、いざとなれば金的蹴りするようなこしゃまくれた女子とか、何気なく描写される教室の風景にもディテールがあって、ドラマの漠然とした背景や、その起因足り得る要素が無理なく収められているように見える。アル少年と父母との関係、あるいは父と母の関係、また旧知の御隣さんであるクリスとの関係のありようも、ほんのちょっとした編集や漠然とした間(ま)のタイミングに於いて、演出的に素描されている。ディテールとしてスマホタブレットも見当たらない世界線になっているのは制作年代的に仕方ないが、そんなものよりも家族や少年少女の家庭や学校での日常生活に於ける機微を小さくとも細やかに掬い取るような脚本は、さすがに『オネアミスの翼』を送り出した人の手によるものと言えるのかも知れない。

そして何より、アル少年が戦争そのものと遭遇する瞬間となった学校の校舎に飛来するザクとの場面は、小さなアル少年と大きなザクとが正に互いに「目と目が合う」瞬間として描写されていて、物語の起点が決定的に描写されるという意味で、演出的にも決定的ではある。

宇宙世紀ガンダムシリーズの初スピンオフ作品として、この作品で事実上はリファインされたデザインで登場した旧来MSのバリエーション機体があったことで、その後の作品でもバリエーション機体が数多く登場してしまう契機となったとは言えるのかも知れないが、この作品に於いては主題的にもMSが人間の日常的な生活世界と地続きに存在する物体としてよりリアリスティックに描写される必要があり、たとえばMSの足元の描写をする為にだけでも、旧来のものよりもっと精密な設定が必要とされたのだろうから、設定のリファインは仕方のないことだったのではないか。

 

●第二話『茶色の瞳に映るもの』

スマホタブレットもない世界線なので、個人撮影の映像はハンディタイプのカメラで何やら小さなディスクみたいな媒体に記録されるらしい。しかしその小さなディスクをバーニィが持ち帰ったことで、彼自身がサイクロプス隊に編入されることになるのだろうと思えば、作劇的には筋が通っているが、それだけに物語的な因果を思わされなくもない。カメラへの記名を見てバーニィはアルの名前を知る。自分の持ち物に自分の名前を記すというのは如何にも子供がさせられていそうなことで、それだけの子供に過ぎないアル少年は戦闘による街の惨状を目にしても、それと自分が遭遇したMSパイロットとのイメージは繋がらない。

それだけに、そんなアル少年にとってより大事に映るのは、本物のパイロットの徽章であったりする。第一話から続くこの徽章というディテールは、作劇的な媒体として機能する。最初は本物か偽物かも判らない友人の持ち出した徽章がアル少年の行動の契機として端緒に置かれて、まだ人を一人も殺したのこともない新兵バーニィサイクロプス隊に編入されたことを示すのもやはり特務部隊の徽章であったりする。そのバーニィの「まだ人を一人も殺したことのない新兵」ぶりは、カムフラージュとして用意された死体につい言葉を掛けたり、それが次の瞬間に工作として無残に狙撃され破壊されることに素朴に震えあがる描写に端的に示される。

バーニィの偽装艇が宇宙港に辿り着き積み荷を搬入しようとする場面で、シュタイナー隊長が特務部隊の熟練者らしい機転を利かせた演技で窮地を脱する。中小企業の経営者とは、如何にも独立的部署の中間管理職に通ずる役回りではある。このあたりの機微が場面の設定や描写の中にあるかないかでも、作劇的な訴求力は恐らく変わってくる。

 

●第三話『虹の果てには?』

アル少年は、それでも物語の主人公らしく、よく機転が利く。轢き逃げの被害者のフリをして車の行き先を突きとめたり、危険な状態を察して嘘八百の演技をしてみたり。だがこれは、そういう人物だからこそ物語の主人公になれるというよりは、物語の基軸としてある人物を置こうとすれば、作劇的な必然としてそうせざるを得ないのだろう。

そしてそのアル少年にシュタイナー隊長が託すのは、やはり特務部隊の徽章であったりする。その徽章は盗聴器つきだが、バーニィから貰い受けた徽章は、アル少年と戦争を、そしてまたアル少年とバーニィとを否応なく結びつける縛りともなる。

ふとしたきっかけで知り合うことになったバーニィとクリスの場面。アルとクリスが再会した時もそうであったように、そこでも束の間のティータイムならぬコーヒータイムがもたれる。(脚本がその人だからか、つい『オネアミスの翼』のシロツグとリイクニのティータイムを想い出してしまう。)ともあれそこにコーヒータイムが置かれることで、心理的な落ち着きの呼吸が出て、その場に会する者達の打ち解け合う様子が端的に見る者にも共有されることになる。またそこでもバーニィはアルと兄弟だという嘘が吐かれることになるが、その咄嗟の嘘がむしろ二人の間柄をより親密に結びつけるのも真に自然な作劇的なりゆきで、けれどそこに紋切り型と捨て置けない心理的内実が感じられるのは、やはりアルやクリスの家庭的なディテールに於ける人物描写が浮ついていないからだろう。

バーニィとアルの連邦軍の秘密基地への潜入場面では、第一話で何気ない形で少しだけ登場していた、言わばモブでしかない人物が発見のカギになる。このカギの配置の何気なさがとても秀逸。あまりにも何気ない形だっただけに、なぜかアル少年と一緒にカギを発見した気持ちになる。また、その後には二人がコロニーの外壁を伝っていくという描写があるが、この場合、科学的な考証として遠心力が実際にはどう働くのかは少し気になる。やはりコロニーの外側に向かって、宇宙空間に向かって「落ちて」いくことになるのだろうか。

 

●第四話『河を渡って木立を抜けて』

またしてもちょっとしたきっかけでバーニィとクリスが束の間行き会う。二人はそこで初めて「バーニィ」と「クリス」という打ち解けた略称で呼び合う仲になるが、後の展開を思えば、それが二人の今生の別れとなる。そこでバーニィとクリスが互いに互いを見合う場面がカットを交錯させて瞬間描かれるが、そのなんでもないような若い男女のささやかな交情がそれでも印象的なのは、二人を密かに見守るクリスの両親の姿が一瞬描かれるからでもあるように思える。それはそのまま物語を見る者の視線でもあるが、つまりそれは、本来ならそのように見守られる幸福な関係、その可能性がそこにある、ということでもある。

教室でのアルと級友達のやりとりは、大人達の言う社会的な意味での敵味方の別をあっさり受け容れてしまう子供らしい素朴さがありがちで、またそれに一人で反論するアルをフォローするのが優等生のあの女の子だというのもありがちだが、それは子供同士なりの人間関係、即ち社会関係の機微を描くに的確ということで、決してつまらない紋切り型にとどまるものではない。

情報屋とシュタイナー隊長とのやりとりは、隊長が「このコロニーはいいコロニーだな」とこぼすのが印象的だが、恐らくはそこで既に核ミサイル攻撃の作戦を聞かされたのだろう隊長は、そんな自棄な作戦が罷り通る事実を聞いてこそ「ジオンは負ける」と確信したに違いなく、その一方でそんな愚劣から本来なら守られるべきものがそこにあるからこそ「いいコロニー」という述懐にも繋がるのだと思われ、飽くまでも暗に含みをもたせる形でそんな描写がなされることは、物語世界に人間的な厚みをもたらす。

人間同士の間に生まれるドラマ的なものの本質が人間同士の対話にあるとして、それは目に見えるものの中で目に見えないものがやりとりされることであって、その中で自身に語れることと語れないこととの表裏の相関の中にその人物は浮かびあがるのだから、その意味でのドラマ的なものは、ここにはきっちり描かれてある。

計画が発動し、ケンプファーが起動する。街中に突如出現する大きなMSの姿は、真っ先に悲鳴をあげる一般の女性の姿と共に描写される。このシリーズで徹底しているのは、大きなMSの足元に必ず走り回り逃げ惑う小さな人間達の姿を描写することだ。それは本伝のガンダムにもあるが、このシリーズではそれが徹底している。そして起動したケンプファーは、繁華街の通りの中を怪獣映画の怪獣よろしく突き進む。

しかしアレックスの前に辿り着いたケンプファーは、思わぬことに不意を突かれた形で敢え無く撃破される。アレックスのガトリング砲にケンプファーの機体は踊らされるように撃ち抜かれ、そのコクピットの中ではミーシャのウィスキー缶もまた踊らされ撃ち抜かれる。戦死するミーシャ自身の顔も声も敢えて描かれない。あるいは彼は、そんなものを遺す暇もなく見る影もなく殺されたのかも知れない。そのミーシャが常に口元に運んでいたウィスキー缶が、その無残を換喩的に表現する。演出のアイデアとしては常套だろうが、しかしこの手の換喩的な表現はやはり効果的でもある。ここでもやはり、それによって戦場の現実の無残こそが際立つ。

 

●第五話『嘘だといってよ、バーニィ

グラナダにあって、ルビコン計画の立案者、指揮者のキリングが上官であるグラナダの基地司令官を呆気なく殺害する。そんな暴挙が安易になされてしまうのは、戦争の趨勢がジオン軍の敗北に向かって末期的な様相を呈しているからに違いない。

しかしそんな暴挙に安易に訴求出来るようには、自他の狭間にあってより現実に誠実であろうとする人間達は答えを出せない。アルやバーニィ、クリスの中に生じる葛藤を丹念に描写することに専念する回。物語を人間同士のドラマとして描き出す効用とはこういうものだろう。何らかの正しさを教条的にプロパガンダする為の手段としてではなく、過程そのものの意味、その何とも言えない厚みを描くこと。人間が取り敢えずにせよともかく答えを出すのは、自分自身が現実に拠って立つ否応ない立場があるからで、それは「絶対に正しい」訳ではない。偶然行き会った級友達の励ましに、その顔が何とも言えない表情にゆがむのをこらえきれないアル。もとよりそれは「何とも言えない」としか言い様がない。

そしてバーニィに本当の決心を迫るのは、誰かから直接的に向けられた尤もらしい訴えや諭しではなく、通りすがりの行きがけに間接的に耳にしてしまった、本来は自分と何の関係もない若い女性の恋人との別れ話なのだった。それはつまり、バーニィ自身の内奥にある良心の声として響く。本当の決心は、誰かの為ではなくバーニィが自分自身の為に見出した、それはそういうことなのだ。

ガンダムシリーズにして遂にMS戦闘の場面が一つもない。だがこのシリーズにあってはまさにこの挿話こそがキモになる。

 

●第六話『ポケットの中の戦争

 バーニィとアルは破損し放棄されたままのザクを修復しに掛かる。普通に考えれば一介のパイロットがMSの修復なんてことを独力で出来るものなのかどうかは疑問だが、思えばバーニィの個人的来歴は物語の中では何も語られない。恐らく作劇的には、敢えてバーニィの個人的来歴を明示しないことで、作劇的な合理化と逆説的な背景の深化を考えたのかも知れない。それは見る者の想像力に委ねてもよい部分で、むしろ委ねることで却って奥行きが出る。彼は、この物語の中で行動する通りの、表裏のないそのままの人物だということ。それであって過不足はない。

バーニィとアルの手で修復されゆくザクは線を引く雨粒にそのボディを打たれる。雨粒に打たれることで、物体的実在としてのMSの機体の印象が強まる。雨や風や、人の姿と共にあるMSのイメージ。

そしてバーニィのザクは、単独でクリスのアレックスと対峙して決着をつけようとする。アレックスの武装が右腕部のガトリング砲500発だけ残存していて補充もされていないというのは、終戦間際のドタバタでそこまですら手が回っていないということなのかも知れない。

止めの一撃で、クリスのアレックスがバーニィのザクのコクピットを貫くのは、本伝の第一話で初戦に立ったアムロガンダムが、コロニーへのダメージを恐れて対するザクのコクピットを貫いてみせたことの反復になる。それと向かい合ったバーニィのザクがアレックスのヘッドを吹き飛ばすのは、バーニィの目的が飽くまでもアレックスの機体の破壊でパイロットの殺害ではなかったことに拠っていたのかも知れない。バーニィのザクの爆発に吹き飛ばされたアレックスは更に左腕部をも失い、言わば本伝の最終話でシャアのジオングと相打ちになったアムロガンダムと同じ形で大破することになる。

いわゆる「ザク」の名称は、設定的にザコキャラであることに由来すると聞くが、多くの無名パイロットが乗ることになった典型的な量産機であるそのザクが、最後の最期にガンダムと相打ちを演じて見せる。「自分が自分でなくなる」ことを自分で乗り越える為に果たされた私闘の果てで。

戦後、アル少年の帽子にはバーニィの遺品である徽章が貼りつけられている。そのアル少年が、学校での型通りな校長の説話に、しかし止めどない涙を一人流し始めるのに第一に気がつくのは、また優等生のあの女の子。たったそれだけのことだが、それだけのことでも、少年が経験を通じて人間として大人になった(のかも知れない)、ということは分かる。

バーニィが戦いへと向かうのはまずもって自分の為で、クリスが戦いから逃げないのも自分の為で、それはその自分の中に他の誰かがいることではじめて本当の意味をもつ。それを、飽くまで御題目ではなく人間同士の具体的なドラマとして描く。その当たり前のことが、「ガンダム」という作品世界の枠の中で、きちんと作りあげられている。

『ミッドウェイ』(2019/アメリカ、中国/ローランド・エメリッヒ)

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漠然と、曖昧に揺らぐ襞状の濃淡が、やがて葦の群生のクローズアップとして画面の中で判然と露わになってくる。そしてその向こうで雁を捕ろうとする網が動いている。

これだけで故なく「映画」だと感じられる。なに故かは本当によくわからないが、確かに。

 

空母は艦載機にとって何よりも欠くべからざる帰還する場所であり、それを喪うことは即ち海の藻屑と消えることに他ならない。そして帰還とはもちろん戻ることであり、またそれを何度でも繰り返すことであり、したがって艦載機の着艦=帰還の場面をヴァリエーションをつけて繰り返し挿入することは、何より物語映画の作法として正しい。

だからこそ、これもまた反復される急降下爆撃の航空アクションも、映像的な構図としては一見似通うかに見える特攻とは似て非なる、飽くまでも帰還への意志を大前提としたものとして描く。 そしてその一方で、炎上する自軍空母を眼下に見やりつつ計器が示す自機燃料の枯渇を見る日本兵操縦士の図で、帰還する場所=空母を失うことの現実のシビアさをも暗に描く。

 

米日の主要キャストも含めて、この映画では誰もが本質的にモブのようにそこにいる、ように見える。この顔はこの人、この人はこの顔、とは撮られていないように見える。それは歴史的戦場に於ける実在の群像を捉える姿勢の表れのようで、それがこの映画なりの歴史的事実へのリスペクトでもあるのではないか。言わば、モブによるモブの為の戦記映画。

 

撃墜され特攻的に自艦に突入してきた敵機に「米人にそんな(特攻するような)度胸はない」と言う南雲。殊更主義主張を叫ばせなくても、さりげない一言にともすればその人物の思想信条さえ垣間見させるようなダイアログは、巧みな脚本の典型ではないか。

(「米人にそんな度胸はない」という台詞は、つまり「日本人にはそんな度胸がある」との意味にも聞こえる。だが特攻を戦術として強いるなどという外道の前には、無論「度胸」などという愚劣な精神論は問題にならない。)

またあるいは、中国に不時着した米爆撃機の機長が、日本機の民地への攻撃を目撃して、その不正義を責めて敵愾心を表すのかと思いきや、曰く「私達の爆撃が状況を悪化させた」と独り言つ。機長が参戦した東京爆撃もまた民地への攻撃だという認識がそこに不意に垣間見える。

各人物が、本質的には人物として際立つことのないモブなのだとしても、ダイアログはそれ自体で響き合い、暗にその意味を示す。

 

「西部劇」への言及もあり、また本篇の作劇構成の基底を貫く「帰還する」という主題故の、ジョン・フォードの召喚なのか。

 空母とその艦載機を巡る、恐らくは「あるある」なものなのだろう細部描写は、単に軍事フェチ的な嗜好というよりは、それでも「人間の舞台」として捉えられた戦場描写としての印象を受ける。ならばとすれば、やはりジョン・フォードの召喚もむべなるかな、とも思える。

(たとえば、敵機を迎撃する艦載の高射砲一つ動かすにしてもあれだけの瞬発的で機敏な複数のマンパワーが必要とされ、尚且つそれがまともな戦力足り得る為にはその操作の熟練さえ必要とされる。機体のちょっとした運動のクセから操縦者の未熟さえ見抜くような熟練指揮者のいる戦場では自然そうなると想像出来る。画面の中で一見モブとして動き回る一人一人の兵士達の一挙手一投足、その言動が、そんな戦場の具体的なイメージを喚起するように出来ている。)

戦場の一見したところの蛮勇が、しかし確かに味方の数十人の命を救ったのかも知れず、その事実について一体誰が何を賢しらに言えるのかと、ジョン・フォードの映画なら時に美しくも悲しくもあるようなユーモアをさえ交えて描くのではないか。襲来する日本海軍の大編隊を見あげて「美しい!」と叫んだ挙句、銃撃されて負傷するこの映画のジョン・フォードの姿は、その映画にあらわされる人となりを通して想い描かれた姿なのかも知れず。

 

20年はリサーチを重ねたというのはどこまで本当の話かは知らないが、確かにこの映画にはそれだけの細部の含蓄はある。この映画の空母の存在が即ち国家の謂いなのは誰にでも判然とする話だし、伏流的主題としては特攻を巡る考察の映画であることもまた同様だ。

米日双方へのリスペクトを意識したような造りは、マーケティング的な配慮でもあろうが、それ以上に歴史的事実そのものへの、またその中で現実に生きて死んでいった人間達への真摯な情理の発露なのではないか。

 

かつての戦記映画には、たとえば戦闘機などの機体から実戦中に撮影された空戦の記録映像をつぎはぎして戦闘シーンを描くものなどがよくあったが、CGで描くと全体の運動の流れをアニメーションのように統括的に描くことが出来てしまう。それを「スペクタクル」と呼ぶのなら、それは仮構された運動の遠大な連続性のイメージのことなのだろう。

メモ:『星屑の町』「心の傷を癒すということ」『37セカンズ』『響 -HIBIKI-』「女川 いのちの坂道」「盲亀浮木~人生に起こる小さな奇跡~」 「ストレンジャー~上海の芥川龍之介~」

『星屑の町』(2020/日本/杉山泰一)

あるいは贔屓目なのかも知れないが、ならば見る者を贔屓目にさせる一際な何かがあるのだと、この映画の活けるのんさんを見ていても言いたくなる。
演出なり演技なりの狭間からときとして表出する御愛敬。野暮ったい田舎娘のナリなのにそれでも見ていることを眼福と感じさせる天賦のツヤ。

ハンディカムの撮影と無理に切返しを捩込む編集の兼ね合いが、もとより演劇的なものなのだろう演者達の芝居の間合いを有効に画面に活かしているとは言い難いが、それがむしろ意図されざるドキュメントのように機能して、のんさんやおっさん達同士の掛け合いの輪郭を微妙にグラつかせるのは、なんかオモロイ。

 

「心の傷を癒すということ」(2019)

自分を滅してまで患者に尽くす、ではなく、自分が居て患者が居る、人と人の関係なのだと、当たり前と言えば全く当たり前なことがさりげないディテールで描かれる。
東京物語』を介した出会い、本棚の「幻魔大戦」、ジャズピアノ、子供の名前。私人としての人生の豊かさ。

「本当の名前だから」本名を名乗る。「不安」の安から、「安心」の安へ。映画館の闇の中で原節子の聞こえない台詞を聞こうとすること。愛する人の愛すべきその名前を祝すること。そして遺すべき子供の名前を考えること。
相手の言葉を聞くことと自分の言葉を伝えることへの真摯さ、丁寧さ。
演者皆○。

 

『37セカンズ』(2019/アメリカ、日本/HIKARI)

映画的な道義として、たとえば車椅子は護られた聖なる弱者の玉座として見えてはならず、むしろなけなしの手や足や、つまりは戦う為の武器として見えなくてはならないのではないか。
もたざる筈の者が、それでもなけなしの力を動員して現実に抗う時にこそ、映画的な「感動」は生まれる。

顔や体の細部への接写を頻用するキャメラは演者の実存が発するモノを信じているし、演者は臆することなくそれにこたえている。微かな車椅子の動静は俄かに演者の実存の表象となり、瞬間そこに主客はない。
佳山明のか細い声音は、臆しながらも社会的な開けを志す「精神」をこそ、具体として刻印する。

作劇として企図された起源への遡行の旅程は、人生を賭した独力の冒険としてあるべきではなかったか。映画的な道義として、人物は自身の具体性で現実と渡り合ってこそ、自身の物語を生きることも出来る。そこに年月が掛かるものならば、そういうものとして描くべきだろう。
何気に女性達の映画でもあり。

 

『響 -HIBIKI-』(2018/日本/月川翔

文芸の創作者の物語にも関わらず、肝心な瞬間には問答無用で手が出る、足が出る。だがそれ故にこそ、たとえば書棚の本を互いに問答無用で入替するやりとりで、これは、本来が「相対」であつかわれる世界に「絶対」をもちこんだらどうなるか、という話なのだと合点する。

響は飽くまで向き合う相手と一対一での対話を試みる。映画の光や音は暗に明にその瞬間を画面の中で具体化する。その一見苦肉のケレンのような演出がそれでも浮つかずに見えるとすれば、それは平手の表出する抑えられた声音や目線がそこに呑まれることなく響の生理を息づかせているから。

自ら求めて差し出し、そして握り返された両手を何故かしらじっと見つめる仕草。それがなんなのかは判らぬ。だがやはり分からぬではない。それが彼女の「相手」との向き合い方なのだ。
文芸の天才の、しかし肝心の作品自体は具体的に開示されず、周縁と中心、即ち相対と絶対の往還が描かれる。

 

「女川 いのちの坂道」(2019)

モキュメンタリーな作劇の体裁は全篇ドローンで撮影するという手法の為の体裁で、その手法は被災した沿岸地帯の現在の景観を俯瞰的かつ有機的に作品に反映させる為の手法なのだと思われる。人物の移動と連動する視点の移動が、その周辺の、かつて津波が襲った地形の起伏をなぜるように映像化する。

全篇ドローンで撮影される為に、基本ロングショットが多くなる一方、それでも何点かで挿入される近接視点は、人間ドラマ的なシーンでのクローズアップとならざるを得ず、そうなると作劇がなまじモキュメンタリーな体裁であるだけに、そこで撮影行為の作為性が映像の虚構性として逆接的に顕在化してしまう。

ドローン撮影による一人称から二人称、そして三人称へのシームレスな視点の移行を試行して失敗したかに見える。
ノローグ的に被災以来の記憶を物語りする平祐奈の独り歩きと、それにつき従う若者とドローンカメラという、序盤のシンプルな映像的構図こそ本来の意味でエロティックで、つまり映画的。

 

「盲亀浮木~人生に起こる小さな奇跡~」(2020)

30分足らず、何も起こらない。
登場人物はほぼ独りで、遵って台詞も少なく、僅かな細部描写だけで進行。
男は文章を書いているが、その原稿は時に海風に吹かれ、雨晒しになり、天日に干され、そして火に焼べられる。
男が偶然見つけた何かの原稿の題名は、「偶然」。

何も起こらない。
ただ、犬がいた。いたからと言って何がどうなる訳でもないが、いた。本当に、それで何がどうなる訳でもないが。
なんなのかと言えば、なんでもない。なんでもないが、それはあった。

男は声を押し殺すように嗚咽するが、その顔は見えない。

幸でも不幸でも、喜悦でも悲哀でも、恐らくない。


ストレンジャー上海の芥川龍之介~」(2019)

絢爛なロケセットと潤沢なエキストラの中に、芥川でありながら芥川でないような松田龍平の輪郭が、よい意味で、それこそ「ストレンジャー」の如くに「浮く」。
旗袍の女達や男娼の青年、路傍の乞食達や京劇役者、花売りの老婆や少女、革命家。
遠景としての群像。

本篇ほとんどのパートでは芥川視点の現在形のナレーションで語られるが、序幕と終幕のパートでは随伴者の村田視点の過去形のナレーションが置かれる。
それによって、「ストレンジャー」芥川の肖像もまた、はじめて歴史という無数の死者達の群像、その遠景の中に留め置かれるかに見えてくる。
死の運命が生の紐帯となるかの如く。

路傍の屋台や妓楼の円卓での食事。
食べることは、あたえられたなけなしの世界を呼吸することに他ならず。即ち、入れて、出す。それを繰り返すこと。
だから、無造作に食べては捨てる、という一見ぶっきらぼうな仕草で登場する随伴者の村田は、「ストレンジャー」芥川の、いわば「呼吸器」として、束の間その傍らに立つことになる。

メモ:『犯罪都市』『ブラッディ・ガン』『台北ストーリー』『ロビンフッドの冒険』『わたしは光をにぎっている』『AKIRA』『スケアリーストーリーズ 怖い本』

犯罪都市』(2017/韓国/カン・ユンソン

犯罪都市」ソウル、その混沌としたローカルな地域性がどこまで現実に根差すものかは判らねど、活劇の舞台となるにはこんな国際化と地域性の鬩ぎ合う社会的背景は欠くべからざるものなのかも知れず。1stショットで何気なく映る万国旗はその意味で象徴的。抽象的な「空間」ならぬ「場所」の具体性。

やはり韓国映画らしい「顔」の映画。見栄えのする路傍の石のような顔また顔の男達。その男達をアクションの具体性でキャラ立てする説得性。事あるごとの刃物、手斧、その他の得物のバリエーションを用いた肉弾戦。スマホならぬ折り畳みの携帯電話を印象的な小物として活用。

「映画」を自国で産み出す本当の「ローカライズ」。

 

『ブラッディ・ガン』(1990/アメリカ、オーストラリア/サイモン・ウィンサー)

アメリカ人は好きだ、言葉でなく行動で示してくれる」

アメリカ人に生まれたかったよ」

などと言う台詞にも滲む作り手の西部劇=アメリカ映画リスペクトが、銃器による銃撃の細部描写の確かさとして結実する。決して描写の為の描写に陥らない、作劇そのものに活用される段取描写。

画面外からの狙撃というアクションの、「不意を突く」という映画的な趣向の普遍性。次の瞬間に何が起こるか判らないという、映画のサスペンス的な本質がそこには露わとなる。それを細部描写の確かさによって虚構の中に定着する演出の仕事。

役者のほのかにまとう「アウラ」が、より映画を映画にする。

 

台北ストーリー』(1985/台湾/エドワード・ヤン

心理などという抽象をあらかじめ自明の如く想定するのではなく、具体的な人物の肖像を空間との相関の中に捉えることで、画面は有機的な「場所」を映し出し始める。空間が空間でしかなければそれもまた抽象だが、そこに人間が介在することで時間が回り始める。即ち「映画」となる。

古今あれこれの建築群。中国語、日本語、英語の混在する無数の広告や看板。移動する車やバイク。明滅し、揺動し、渾然一体となる光と影。落書、ガラス窓、絵画、ビデオ、電話。これら都市の肖像が、けれど審美的にはならないのは、そこに人間が蠢いているから。

紫煙を燻らせ嗤う男、黒眼鏡を掛ける女。

 

ロビンフッドの冒険』(1938/アメリカ/マイケル・カーティス、ウィリアム・キーリー)

早回しアクションは古典的な「映画らしさ」だが、その尤もらしさに阿らない微妙な変速の緩急は、素朴に稚気じみてむしろ好ましい。

空気の動くたびに揺らめく姫のヴェールは、受動、能動かまわずその動態の表徴で、それ故にこそ美しい。

王城内の縦に抜けた大掛かりなセット設計。

これは何気に、後の『カリオストロの城』や『スター・ウォーズ』を産み出すイマジネーションの素地となるような作品ではあるのやも知れず。文字通りの「王道」活劇。

 

『わたしは光をにぎっている』(2019/日本/中川龍太郎

冒頭、黒画面、女性の鼻唄らしい声音が聴こえてくる。そして1stショットに映し出されるバストショットの松本穂香。この時点でもう疑念が湧く。鼻唄らしい声音が誰のものなのか判然とせず、それが物語として機能するでもなく、言わば風景の一部のように素気なく流れ去る。

「叙景的」とでも言うのか。あまりにも安直に全てをイメージとしての映像に委ね過ぎる。そこには漠然としたイメージに仮託された風景とその一部としての人びとの姿があるばかりで、言わばそこでは誰も、何も、本当には動き出すことがない。場面や画面の連鎖もまた順接的で、そこでもやはり動きは生み出されない。

 

『AKIRA』(1988/日本/大友克洋

○の形象は、このアニメーション作品の潜在的に一貫した図像、モチーフとしてある。それは超能力者が周囲の物体に具体的に及ぼす「力」の基本的な表現の形象として描出されるが、その形象が○になるのは、それが力の均衡を示す象徴的な形象であり、それ故に宇宙的なスケールをも感知させるからではないか、とはひとまず言える。

微に入り細に入り描きこまれた具体的で複雑なモチーフが、見えない「何か」に圧され、倒され、捻じられ、曲げられて、そこに空間的に切断された○の形象が暗に現出するという一貫された表現は、本当ならば全く荒唐無稽な筈の「力」の存在を、恰も物理世界への超越性の顕現であるかのように説得的に提示してしまう。

展開に次ぐ展開で、しかし詰め込み過ぎの閉塞感は覚えさせず、長丁場を乗り切るタフな作劇を牽引するのは、常に目の前の事態に対応しようとする、動き続ける人物達。

そして目の前の物事のあからさまな変容がなされようとする瞬間、ヒトは本能的に目を瞠る。驚異に驚愕する目、センス・オブ・ワンダー

 

『スケアリーストーリーズ 怖い本』(2019/アメリカ/アンドレ・ウーヴダレル)

たとえ超常現象であれ、否、むしろ超常現象であればこそ、虚構の中の辻褄はある一定の線で一貫していなければならないのではないか。一定の約束事がまもられるなら、後はアイデアとして何を盛りこんでも良いが、逆にそれが無ければ結局「御都合主義」に堕してしまう。

本が持ち出され、いつかどこかで聞いた話の現実化としての災厄が始まる。そんな設定ならば物語の収束はそれに応ずる形で成されなければ、その間に起こったことが一体なんだったのか訳が判らなくなる。その「御都合主義」の中では結局登場する怪物達の見世物性が印象されるばかりで、物語は空転せざるを得ない。

シナリオに構造がない。それを恣意的なダイアログで補填するだけの脚本には、この世そのものの存在論的な暗部に至る路は開かれてこない。ジャンル的な「御約束」に曖昧に便乗するだけでは、その枠組内での御遊戯の巧拙が露呈されるだけで、映画が「映画」ならざるものと遭遇する恐怖に至ることがない。