映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『愛しのアイリーン』(2018/日本/137分)吉田恵輔

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映画を見ていて、現に目の前にあるその画面を構成しているハンディキャメラがたしかにハンディキャメラらしいと識別できるのは、その画面が微妙にふれ続けているからだ。映画には画面という、本来可視的であるのにもかかわらずそれが無視され続けることで初めて映画が映画として成立する暗黙の枠組みがある。ハンディキャメラはその画面の際(きわ)、言わば画面の内外の臨界を示す枠組みが、緩やかにせよ激しくにせよ、ふれ続けることに於いてはじめてそれとして識別できる。
そしてこの映画の画面は、まさに微妙にふれ続ける。つまりハンディキャメラによる撮影がなされているのだが、それはこの映画の映し出す人物の群像とその物語に、曰く言い難い微妙な距離感をあたえているように見える。これ見よがしに場面の動的な臨場感を“演出”するような激しい揺動は決して見せないキャメラは、しかし一見静的な構図で人物や光景を捉える際にも、なぜかしらハンディキャメラとしての緩やかな揺動をやめない。それはごく微妙な揺動なのだが、しかしごく微妙でもやはり揺動していて、その枠組みの蠢きは、画面に映るものと画面を見るものとの間に、固定された視点による対象への一方的な措定を設定することを拒み続けるかに思える。
この映画のキャメラは、それ故つまり、そこに“いる”のだ。キャメラの視点自体が映し出されているその場面の不可視の当事者としてそこにあって、画面の中の事のなりゆきを見つめ続ける。だからこそそれは、いたずらなクローズアップを拒み、またことさらなロングショットを拒み、そして同時に、臨場感の無用な誇示でしかないような激しいキャメラワークをも拒む。そこに“いる”キャメラは、それ故にこそ、群像を捉えながらもその群像の中の一視点に同調するようなことも決してない。そこに“いる”という意味で、この映画のキャメラは群像各自の視点と等価な資格でしか存在していないからだ。


映画にはないが、原作には「人間関係は心の戦争」というセリフがあったものと記憶する。たしかにそれはその通りかも知れないが、現実的な日常的状況に於いては、それは大抵の場合「冷戦」の形をとることになるのもたしかだろう。なぜそうなるかと言えば、現実的には人間は、多かれ少なかれ本音と建前を遣い分けることで「心の戦争」をやりとりすることになるからだ。しかしこの映画の物語に於いてそれは「冷たい戦い」ではなく「熱い戦い」として描かれる。誰も彼も己を包み隠すことを知らないかの如く、本音を言動に突き出すからだ。本音を言動に突き出すことは、互いに傷をつけあうことを厭わないということでもある。そこで肝要なことは「互いに」というところであって、そこにこそそれが「熱い戦い」として演じられることの本質がある。それ故逆に言えば、「冷戦」の本質は出来るだけ自分に傷をつけられることなく一方的に相手に傷をつけることにこそあるだろう。
「熱い戦い」の当事者達は、だから正面から「加害者」を演じることを辞さない者達でもある。その裏には自然に、本来の被害者としての自己生成はあるかも知れないが、自分で自分を演じることに於いて「熱い戦い」の当事者達は、けっして自らが「被害者」であることを自己規定のうちに組みこまない。何故ならば「熱い戦い」に於いては、被害者としての自己生成に於いて自己規定することは、そのまま被害者の不利益をこうむり続けることになるからだ。この加害者と被害者の相反は、物語の作劇としては活劇とメロドラマの相反とも言える。加害者的であることは本音を言動の表面に突き出すことに於いて活劇的な造形となり、被害者的であることは本音と建前の矛盾それ自体を内包的な動因とすることに於いてメロドラマ的な造形となる。
その意味で言うなら、この映画の物語は、メロドラマ的な動因に於いて駆動する活劇的な造形群による群像劇であり、同時に、その活劇的な造形群に於いてむしろメロドラマ的な動因そのものが駆逐、消尽されていく群像劇なのでもある。そして消尽されたのちに何が遺るのか、という話になる。


岩男がアイリーンに掛ける「愛してらど」のセリフは、何もかも消尽されたのちの雪原の中で、アイリーンの中にリフレインするかの如く、映画の中で響く。アイリーンは瀕死のツルに、思わず「そう思わねが」と言葉をかける。「そう思わねが」という一言には、現実にそうなること以上に、むしろ希望的な響きそのものが詰まっているようにも聞こえる。原作と異なっているこのまとめかたは、映画という媒体の、2時間ちょっとの時間の纏まりで物語の全てを表現しなくてはならないという暗黙の枠組みに、たしかに相応しいまとめかたであったように思える。
映画とは恐らく残響なのだ。今そこに演じられていた物語は、しかし最後は暗闇の中に消える。暗闇の中に消える映像は記憶というあいまいな残響としてそれを見届けた者の中に刻まれる。それは、たとえばこの映画の中で岩男がアイリーンに掛けるその一言の一瞬のように、全てが過ぎ去ってからふと思い起こされるような、あるいはもはや思い起こされさえしないような一瞬でこそあって、また一瞬でしかない。だからこそ、映画としてのこの物語は、あのようにして終わるべきだった。それは正しい。

人の生の意味は綿密に編み合わされる整合ではなく、むしろ矛盾だらけの錯綜した隙間であり、その隙間と隙間が偶さか絡み合うことが、人と人との出会いの一瞬でもあるのかも知れず。それは勿論、岩男とアイリーンが初めて口づけしあうその瞬間のようでもあるだろうし、またあるいは、兄貴の平手打ちを食らった愛子と岩男の目と目が偶さか絡み合うその瞬間のようでもあるだろう。
その一瞬は、誰も企図できない。そして映画は、企図してその企図できない一瞬をこそ描こうとするだろう。

ナッツ・シトイの、それこそ子供のような破顔号泣は、たしかにアイリーンという人物をそこに宿すかのように見えた。