映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『機動戦士ガンダムNT』(2018/日本/90分)吉沢俊一

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ガンダムガンダムであって、それ以外のものではない。良くも悪しくも。

 

逆襲のシャア』の原作だった富野由悠季による小説『ベルトーチカ・チルドレン』の物語の中で、アニメ版の「サイコフレーム」と作劇的な意味で同様の役割を担うのは、アムロベルトーチカとの間に授けられた生身の胎児の存在だった。そこでは「サイコフレーム」という一応はテクニカルな設定の媒体によってではなく、生身の胎児が宿している生命の可能性そのものが地球の危機を救うことになる。しかしそのアイデアは、製作者から「モビルスーツ否定だ」という意見が出て、結果的に富野由悠季も了承してアニメ版は実際の形になったと言う。

この「NT」の物語の中で重要な役割を担う設定としての「サイコフレーム」は、それ故本来ならば作劇の都合で創案されたでっちあげのシロモノに過ぎない。もし『逆襲のシャア』が原作の通りに描き出されていたら、「サイコフレーム」は存在せず、したがってその後に設定された「UC」や、その派生としてのこの「NT」の物語も存在しえなかったことになる。

生身の胎児が宿している生命の可能性そのものが、モビルスーツという媒体を凌駕して劇中の物語そのものを創り出すという発想は、ロボットアニメとしてのガンダム作品のありようと矛盾するという製作者の指摘は、はっきり正しい。それが正しいことは結果的にその後継として制作された「UC」やこの「NT」でつづられる物語のありようがそれを証明している。そこでは「サイコフレーム」という本来はでっちあげのシロモノの役割が肥大化し、モビルスーツの存在とそのパイロット達が演じる物語との狭間に生じる矛盾の解消が懸命に図られることになる。

 

劇中、ほとんど亡霊の仮初の形姿と化したかのようなユニコーンガンダムの3号機は、フェネクス=不死鳥と呼称される。生死を超越するかの様な存在に「不死鳥」の名を冠することは当然のようだが、それはそれでも人の形をするモビルスーツというマシンのありかたを象ってもいる。人の形とはすなわち人にとっては命の形でもあり、命の形が不死鳥へと化身する作劇的なイメージには、手塚治虫の『火の鳥』のイメージも重なるように見えてくる。手塚治虫の『火の鳥』も一言で言えば命の死生論の物語だが、そこでは人の形は生死を越境する中でその形を失い、命そのものの形なき形に化身していくことになる。

セル画によるアニメ映画は、その描線が物の形を象ることで画面の中に絵による物語を語ることになる。そこでは物の形とはそのまま現実の形であって、だからこそ物の形が融解して描線が崩壊するとき、それを見る者はそこに現実感を認識できなくなる。それ故、所謂「ニュータイプ」という設定を巡る死生論の物語を展開するこのアニメ映画が、描写としてそれでも人の形をしたモビルスーツという設定にも拘らざるを得ないことは、少なくとも宇宙世紀シリーズのガンダム作品として正しい矛盾でもある。そこでは人の形こそが現実感の基盤であり、生死の臨界に至ってもその形を命の形として受け継ぐことが主題とされる。

 

富野由悠季の手掛けたガンダム作品の中では、モビルアーマーというモビルスーツ的な発想の肥大化、奇形化したシロモノのパイロットになるのは大抵女性だったように思われる。エルメスララァ然り、サイコガンダムのフォウ然り、α・アジールのクェス然り、変わったところでは『F91』の鉄仮面も、一見すれば無論男性ではあれ、そのじつ偉大な父性に圧殺された自分を庇護するかのように女性的な華の形をしたラフレシアの中央に鎮座していた。つまりそこには人物のパーソナリティがその乗機に反映されるかのような如何にもロボットアニメ的なイメージが描き出され、モビルスーツ間の戦闘行為がそのパイロット達の人間的な相克のドラマとして直截に無意識的に伝播するような通底性が担保されていた。

そしてそれはこのガンダム作品にあっても同様で、主役機のナラティブガンダムは、その裸形のフォルムに於いて「やせっぽち」と形容されるが、それは無論そのパイロットのパーソナリティが一言で言えば「やせっぽち」だからで、つまり作劇的にイメージの通底性が意識されているということになる。

 

人の形をしたモビルスーツという媒体とそれを内から超えようとする主題的なドラマとの矛盾は少なくとも宇宙世紀シリーズの、もっと言えば富野由悠季の手掛けたガンダム作品の相克として作劇の原動力になってきたものと思われる。かの「UC」はその後継を実演しようとした作品なのであろうし、そこからの派生作品とも言えるこの「NT」もまた作劇的な細部に亘ってそれを再演しようとした作品なのかも知れない。

逆襲のシャア』でいったんは日の目を見ず、アイデアとして闇から闇へと、言わば堕胎されたアムロベルトーチカとの生身の胎児の存在は、「サイコフレーム」という設定に化身してむしろモビルスーツという媒体の中で肥大化、奇形化したのかも知れない。その終焉の契機を喪失した物語の中では、人の形をしたものが人の形を喪失するか否かの一見するかぎりグロテスクな生死の臨界のドラマが反復される。そこで実演されているものがともすれば富野由悠季ガンダム作品の再演に見えてくるとしても、もとより富野由悠季ガンダム作品自体が再演に次ぐ再演だったとも言えるわけで、繰り返し再演されることで再認される主題も、ないとは言えないのではないか。

 

終幕、人の形を喪失する彼岸に引き寄せられるかに見えた主人公が、しかしその臨界で先達に当たる人物によって引き戻される。一人きりのよるべなき「やせっぽち」がそれでも生身の誰かの手によって生の世界に引き戻される。陳腐と言えば陳腐だが、つまりそんな話だ。モビルスーツを駆りながら最後には生身一つに戻る。何度も演じられた矛盾とその相克のガンダムの物語がまた再演される。

 

終焉の契機を喪失したことはそれはそれで悲劇だったのかも知れない。しかしいったんそこで生き延びてしまった以上、生き延びてしまった命を出来るだけ存えるほかはない。少なくともそれが願われているかぎり、ガンダムの物語世界の延命は宿命みたいなもので、是非もない話なのかも知れない。

 

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作画が全般的に肌理が粗いように見えた。とくに人物の描線は「UC」のクオリティにも遠く、生理的な肌理に乏しい。