映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『マリアンヌ』(2016/アメリカ/124分)ロバート・ゼメキス

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遠くに臨む太陽を焦点に、キャメラの視点が眼下の砂漠へと「落下」しつつあることが、画面の前を上へ上へと過っていく雲のような薄い霧状の気体によって判然とする。落下していくキャメラは、そのまま画面の上から降りてくる人の足から体、そして落下傘に吊られたその全身を捉え、やがてその全身はそのままキャメラの前で砂漠の地表に落着することになる。つまり1カット。
CG処理があることで1カットのアクションは必ずしもそれだけでは運動の事実性の担保にはならなくなったが、それでも1カットのイメージは、運動の持続的な在り様を描出することに於いて演出的な意味を担保することは出来る。演出的な意味とは、その1カットのイメージが統語論的に物語に及ぼす効果のことであって、だからたとえCGで処理する1カットのイメージであっても、それは決して描写であることをやめない。それはアクションの不可避性をつきつけることで場面のスペクタクル性やサスペンス性をも担保するだろう。

1カットのイメージが演出的な意味を担う一方、カットを割ることもまた当然演出的な意味を担うことになる。劇中の描写で鏡が多用されるのはあきらかだが、そんな鏡の多用はカットを割ること、あるいは割らないことへの演出の意識のあらわれだろう。ちょっとした角度の変化で視線の方向を操作できる鏡に於いては屈折的な視線の交錯を演出的に活用できる。劇中でブラッド・ピットマリオン・コティヤールカップルが互いを暗に探りあうような場面では鏡による屈折した視線の交錯が演出されるが、ふたりの関係が成就し夫婦となるパーティの場面では、ふたりの向かい合う視線が向かい合う視線そのものとして十分な時間的かつ空間的な間(ま)を置いて描写される。劇中単なる対話シーンでも当然繰り返される切り返しが、そこではその時間的かつ空間的な間(ま)に於いて、ふたりの向かい合う視線そのものを描き出す描写として効果的に運用されて、見る者にふたりの関係を印象づける。

カットを割ることは場面を割ることにもつながる。そして場面を割ることはつなげることでもあって、如何につなげるかによって効果的な演出も出来る。劇中、閉塞的な状況から場面がきりかわると、マリオン・コティヤールがカーテンや窓を思いきり押し開く動作が幾度か挿入される。それは演じられるマリアンヌの人物が開放的で、つまり物語に於いて希望的なあかるいイメージのキャラクターであることを暗示することになる。単に演者の演技によるものでないそれは、たしかに映画に於ける「演出」で、少なくともこの映画の演出は、カットを割ることと割らないことの映画に於ける意味をよく自覚した演出なのではないか。
カットを割ることがたんに演者の演技をしのいで演出的な意味を発揮する場面。夫が懸命に飛行機のエンジンをスタートさせようとするその傍ら、車の中で待機していた妻が、追手の車が迫っているのを目にしてとっさに視線をかえる。そこに示されるのが夫の拳銃が収められている車のダッシュボードのカット。それだけ。たったそれだけで、しかしそこで妻の心がどう動き、そして次にどう具体的に動くのかを明示することになる。物語がカットを割られたそのショットに於いて、動いて進む。それは演出が物語を追い越す瞬間ではないか。演出が物語を追い越すことで、映画の中の人物のドラマはその瞬間に真実になり遂せる。

フランス領モロッコの場面では、環境的な音響やマリオン・コティヤールの服飾、その風に靡く襞が、当地の開放的な空間の気配を演出するだろう。しかしブラッド・ピットマリオン・コティヤールが親密な関係を本当に築くのに必要とされるのは、車の中という閉塞された密室でもある。車の中という閉塞された密室はふたりの蜜月の場処であり、だからそれは砂嵐や大雨によって閉塞させられればさせられるほど切実な演出の装置として機能することになる。そして閉塞された密室のイメージはしかしマリオン・コティヤールの示す開放のアクションによって物語論的に希望的なあかるさへと開かれてもいる。

終幕、実際にそこで演じられた親密なドラマが、当事者によって直接に演じられるよりも、第三者的人物の建前上のセリフによって代行的に覆い隠される。覆い隠されることに於いて、親密さは親密さとして暗に保持される。それこそ感動的。