映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『A GHOST STORY  ア・ゴースト・ストーリー』(2017/アメリカ/92分)デヴィッド・ロウリー

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愛する男を喪った女が、キッチンでひとり座りこみ、食器いれに寄りかかって延々とパイを食べ続ける場面がある。延々と食べ続けるその行為は、無論一種の自棄食いというもので、一見すれば延々と食べ続ける様子を延々と捉え続けるかのようなその場面は、そこで演じられているその行為の意味を考えるかぎり、演出の工夫に乏しい単調な場面でしかないようにも映る。物語を語るという意味では、それは確かにその通りなのかも知れない。たとえばその場面で語られるべき「物語」があるとすれば、つまり「女は哀しんでいる」ということにでもなるのかも知れない。

「女は哀しんでいる」。それはたしかにその通りで、女は哀しんでいる。だが、果たしてそれだけか。その場面で女はたしかに画面の中心で、映画の演出はたしかに女を中心にその場面と画面の意味を組み立ててはいるだろう。だが女は中心ではあってもけっして全体ではない。なんとなれば、ふと気がつけば、その画面にはキッチンの暗がりの中で壁の面に差しこむ淡い光の揺らめきが映りこんでいるし、またどこからか聴こえてくる鈴の音や子供の声が響きわたってもいるからだ。それらははっきりと「物語」と呼びうるような意味は構成しないかも知れない。しかしそれらはそれでも、たしかに場面と画面を構成する細部であり、細部であるかぎりは、その意味を生きている。

愛する男を喪った女がへたりこむように座りこんだキッチンの片隅は、言わば世界の片隅だ。その片隅で女はたしかに自分自身の哀しみに埋没することしかできないのかも知れない。だが、同時にその場面と画面は、女をその片隅に包摂しながら尚以て当然に自然の営為を絶やすことのない世界そのものの片鱗をも写し取る。その場面と画面とは、それ故に普遍的=不変的な時間と空間の感覚をこそそこに描きこもうとしたのではなかったか。映画は物語を語る以前に、世界そのものを映し出す透明な媒体なのでもあり、光と音とに世界そのものの表象を託すその映画は、その意味で本来的に映画そのものだとも言えるのではないか。

 

この映画の「物語」は、白いシーツ姿で徘徊するゴーストを中心として映し出される。その画面が全篇スタンダードで映し出されるのは、そのゴーストの基本的な直立姿勢が最も映える画面比率だからでもあるだろう。ゴーストの形姿を中心に構成されたものだろう画面は、逆に言えばゴーストをその中心に束縛する画面でもある。ワイドな余白、あるいは横軸の広がりを基本的に見せない画面は、ゴーストの主観を中心にした静態的な世界観を画面の中に提示する。ゴースト自身にとっては、それはむしろ自身の主観に束縛され続ける地獄めぐりの舞台となるだろう。

この映画のスタンダードの画面は、それ故主観的である。主観的であるということは、キャメラとしてのその存在の位置、つまり視点が、見るものの意識にとってきわだつということでもある。それは実際、古典的な撮影キャメラをのぞき込んでいるような視点にも見えてくる。そのキャメラは世界に当たり前のように遍在する視点としてではなく、あくまで定点観測のように「ここ」にあって、あり続ける。それはだから、ひとつの家屋とその土地という空間を歴史的な時間軸へと伸長して見せるこの映画の「物語」に合致してもいる。

 

スタンダードの画面は、二つのものを同時に映し出すよりも一つのものを中心に据えて映し出すのに適しているのではないか。だとすれば、この映画が世界にたった一つのもの、即ち一個の主観を前提に「物語」をつむぐのも然るべきものだとは言える。そして一個の主観とは、映画に於いては一個の顔でこそあり、この映画に於いて印象的なショットの一つだろうヘッドフォンで音楽を聴くルーニー・マーラの肖像は、如何にも一個の顔としてきわだつ。それはともすればドライヤーの描き出すジャンヌ・ダルクの肖像にも似て、聖女的なすがすがしさを湛てさえいる。

聖女的なすがすがしさを湛えるかの如きルーニー・マーラにひきかえ、かたやに立つのは白いシーツのゴーストなのだが、白いシーツという表層もまた、その意味では映画に於ける聖遺物的なイメージを喚起するものではないか。歴史的にモノクロでしかありえなかった古典的なサイレント映画の中での鮮烈に黒白のきわだつイメージを、それは負っているかにも見える。もとはと言えば、この映画の中でも男の遺体を覆っていたその白いシーツは、たしかに由来的にも聖遺物なのだ。本来なら物体に過ぎない筈のものが、人の形を仮初に象って動き回るさまは、その意味では映画そのもののありかたの謂いだとも言えるかも知れない。

 

白いシーツのゴーストを、それでも中でケイシー・アフレックがちゃんと演じているというのは、大事な話だ。ゴジラを役者が演じていたことが大事な話であるのなら、それもまた大事な話だ。それはルーニー・マーラのメモの内容をルーニー・マーラしか知らないという事実にも似ている。敢えて言えば、魂は見えないということ。