映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『沖縄スパイ戦史』(2018/日本/114分)三上智恵、大矢英代

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「スパイ」や「陸軍中野学校」などというワードが映画的な興趣をそそる、なんて物言いは無論粗暴な言い草に違いないだろうが、しかしこのテレビ的なドキュメント作品はたしかにそんな秘匿された事実自体のフィクショナルな喚起力に、作品としての魅力を支えられてもいる。悲劇的、あるいは惨劇的な事実についてのひとつひとつの老人達の証言は、逐一挿話的な想像力に結びつき、まるで劇映画の一場面に立ちあっているかのような情理の感覚をもたらす。それは、それらの証言を経て考察される当時の社会構造の表裏の在り方が、本質的にフィクショナルなものだったことにもよっているのだろう。

 

陸軍中野学校」によって養成された青年将校達が沖縄に渡って民衆の中に「スパイ」部隊を育成する、それはけっして沖縄防衛の為ではなく、やがて来たる筈の本土決戦の為の予行でこそあった、などという“真相”は、国家が国民を捨て石にしかしないというさもありなんの結論よりも、むしろ面白い。

そんなものが「面白い」のは、そこにこそ、人間なり社会なりのフィクショナルな本質のリアリティ、そのドラマ的な表裏の相克が、想像力の中で描き出されるからだ。そして事実は挿話的な想像力と結びつき、物語となる。事実が事実として単に提示されるのみならず、それが挿話的な想像力と結びつき物語となるその在り方は、劇映画的な創作の道筋とも重なる。

 

しかし、そんな劇映画的な創作の道筋を経て、この作品は過去と現在の日本社会に通底する「問題」を告発するプロパガンダとして編みあげられてしまう。劇伴や編集に依存し、情報を過密にするそのテレビ的な演出や構成は切実な映画的露呈をもたらさない。映画的露呈とは即ち画面の中の実存的な現在形の露呈でこそあって、それを欠いているドキュメントは、たとえ映像によるものではあっても、本質的に「見る」ものではなく「読む」ものでしかないと言える。

 

旧日本軍の将兵の間に秘匿された悪を暴いて苛烈だった、かの『ゆきゆきて、神軍』は、その意味では真逆に、まさしく「見る」映画だった。そこには奥崎謙三という全き個人があって、その個人が狂信的とも言える「神」への信仰のもとに旧日本軍の将兵と対決してまわるが、そこで「奥崎謙三」という主体性がはっきり画面の中で演じられていたことに於いて、それはまさしく「見る」映画足り得た。

つまり、画面(キャメラ)のあちら側の被写体が暴走の臨界で主体性を発揮するそのとき、それを捉える画面(キャメラ)のこちら側の主体性もまた反照的に問われるわけで、その不即不離な緊張関係がそこに生きられることで、その画面の中には実存的な現在の露呈が担保されていた。

 

くらべて、「見る」ものであるよりは「読む」ものであるこのドキュメント作品は、開示される事実自体のフィクショナルな喚起力によって、十分「面白い」作品にはなっている。そこに開陳される証言にはたしかに挿話的な想像力に訴求するような社会構造の表裏の相克が含蓄されてあるかにも思われる。だが、やはりそれは「映画」ではない。映画的な素材をあつかうことは出来ていたとしても、その作品自体は「問題」を告発するプロパガンダとしての体裁に安定的に落着してしまうからだ。

 

「見る」ことは、本来は不安定で“あやうい”ことだ。それは対象と直接に向き合うことだからだ。『ゆきゆきて、神軍』がまさしく映画だったと言えるのは、それが「見る」ことの“あやうさ”とこそ向き合わせる作品だったからだ。「神」を奉じる奥崎謙三の個が体当たりで対決を演じてまわるさまは、「見る」ことの“あやうさ”を想起させ余りあった。一方「読む」ことは、少なくとも映像媒体の範疇に於いては、対象を自明的な認識の中に埋没させてしまう。つまり対象を間接的な文脈の中に回収してしまう。それはたとえば、一人の人間の遺体の映像を「匿名的な歴史的被害者」の映像一般に還元してしまうことであり、つまりその尊厳を簒奪することでもある。

 

このドキュメント作品の中で語られた老人達の証言は、その内容の事実自体が映像喚起的だったと言える。それはなまじの実録映像よりもむしろフィクショナルな喚起力に充実して挿話的な想像力に結びつく、その意味では映画的だった。只管聞かされるだけで目には直接的に見えないものが、逆説的に「見る」ことを喚起するかのようなその倒錯こそ、たんに「読む」ことに落着させられない「見る」ことの“あやうさ”と、辛うじて向き合わせてくれた。その意味ではやはり貴重だった。