映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『じゃりン子チエ 劇場版』(1981/日本/110分)高畑勲

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映画を基本的に構成する二つの軸があるとすれば、それは「演出」と「演技」であって、それがアニメーション、とくに人の手で描くアニメーションに於いて難しいのは、恐らくキャラクターに「演技」をさせることなのではないか。基本的に画面の全てが人の手によって統御されるアニメーションなら、意図的な画面の「演出」は作品成立の為に必要不可欠な次元でそこに介在するが、キャラクターの「演技」となると、そこに生身の役者が介在しない分だけ「演出」に統合されてしまうことになるのかも知れない。

無論アニメーションにも声優の「演技」はある。だが声優の仕事が止絵に肉声を重ねるだけではない以上、画面の中のキャラクターは独自にアクションを、やはり「演技」しなくてはならないから、そこには少なくとも見る者に訴求できる程度の(それこそが「絵空事」だと突きはなされない程度の)リアリズムが求められることになる。リアリズムは必ずしも模写的なリアリティに直接的に結びつくわけではないから、漫画的な(止絵的な)記号的表現も援用可能とは言え、本来動かないものが命を宿したかのように動き回ることが本質になるアニメーションにあっては、キャラクターを如何に動きの中で活かすかが問題になる。

このアニメーション映画では、少なくとも日本の漫画では一般的な記号表現としての「冷汗」が、かなりの頻度でキャラクターの顔面に描出される。普通なら焦燥や焦慮の感情表現として活用されるその記号が、このアニメーション映画ではその通例を逸脱して、たんに焦燥や焦慮を表出しているとは思われないようなシーンにあっても、かなり過剰にキャラクターの顔面に描出される。それが通例を逸脱していると認識できるのは、もちろんシーン自体の文脈にもよるが、同時に原作漫画のデザインが再現されているキャラクターの記号的顔面による表情が一概に焦燥や焦慮を現す描線になっていないことにもよる。そうなると、「冷汗」からキャラクターの心理を一義的に読解することが困難になり、画面の中のキャラクターがそれだけ表情の「厚み」を獲得することにもなる。
このアニメーション映画で、表情の「厚み」と言えば、やはり顔面の記号的表現としての「睫毛」もある。主人公のチエが何かしらメランコリックな物思いにふける時、普段は薄っすらとした描線でだけ表現されているその瞼の辺に「睫毛」が描き加えられる。「睫毛」が描き加えられる時、きまってチエはつかの間の物思いにふけっているのだが、その「睫毛」、柔らかさは、普段は明朗快活なチエのもう一つの顔である内省的な少女の顔を表現している。これもまた普段の薄っすらとした基本的なデザインの描線と対比的にチエという少女の多面的な(文字通りの)横顔を一つの顔で複合的に表現する為の工夫であろうし、それによってやはりキャラクターは表情の「厚み」を獲得する。
これらの表情の「厚み」は、キャラクターにあたえられた形象的な「演技」の主要を構成するだろう。

むろんアニメーションのキャラクターには声優という生身の演技者がいて、肉声による「演技」をもキャラクターにもたらしている。このアニメーション映画に於ける、声優としては素人と言える芸人達による「演技」は、それはそれでキャラクターの動態的な「演技」とよい意味でのテンポズレを起こしていて、その肉声のテンポと作画のテンポのズレた「間」こそが、このアニメーション映画の「演技」のもう一端を担っていると言ってもいい。それはテンポの同一化であるよりはズレとして効果を発揮しているように見える。
主要な配役ほとんどに素人声優、声優素人をキャスティングしていることが演出的な意図によるものなのかどうか事情は判らないが、元からが漫画的な記号表現の集積であるキャラクターに、そんな同一化にそぐわないだろうキャスティングがなされていることは、必然的にその肉声と作画とのテンポズレを生じさせる。だが逆に言えば漫画は漫画であって、その描線がどれだけ微細にうごめいたところで、肉声を発する顔面を同一的に再現できるわけではない。であれば同一化よりはむしろズレをとりこんだほうが、キャラクターの「演技」はやはり「厚み」を増す。

この映画の監督(演出)である高畑勲が、のちにアニメーションキャラクターの「演技」のリアリティを志向した『おもひでぽろぽろ』を制作したことは、この作品のような表現段階での生身による肉声と記号による作画のズレ、そしてそのズレが露呈する、志向としてのリアリズムとリアリティの齟齬に問題意識を覚えていたからではないか、とは思える。
「リアリズム」とはその表現媒体に於ける現実の表象システム模索の問題であり、必ずしも現実の模写的な「リアリティ」が直截にそれを担保するわけではないという意識。

このアニメーション映画は、一見漫画的な記号表現のデザインを踏襲しながら、実際は作画によって場面が支えられている箇所も多い。
チエが一旦家出を決意して通りに出ていこうとすると、なぜか一輪の白い花が落ちていて、それを徐に拾いあげたチエが母親の存在を想い出して一転心変わりする場面。家出をやめたと快活に宣言して家の中に振り返るその一瞬、チエの短い髪の軽やかなうごめき。そんなうごめきを目の端で暗に見る者が確認すればこそ、その場面でのチエの一瞬の心変わりが描写として事後的に説得的になっているように思われる。また最後の小鉄とジュニアの対決場面でも、ここで猫同士の人間的な格闘アクションが妙に重量をになった実体的な描線で描写されていることは、やはりこの場面そのものを説得的にしている。ここで猫同士の対決が如何にも漫画的な軽い描線で描写されていたら、作品の主題そのものが見えなくなったに違いなく、それはそれで作画に「演技」を指示する「演出」の仕事だったのだろうと思われる。
「演出」の仕事と言えば、細かいところで見当たるのは、たとえばチエと母親のふたりがボート乗りをしていると、二度までもふたりのボートが他のボートと接触するタイミングでカットが切り替わる「演出」。たんにカットを切り替えても成立するかも知れないポイントだが、接触というアクションを介することで、カット繋ぎに暗にリズムが生まれている。
細やかすぎるほど細やかな「演出」がキャラクターの「演技」を支えて成立するアニメーション映画。