映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『運び屋』(2018/アメリカ/116分)クリント・イーストウッド

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「運び屋」の自覚を帯び始めた老人が、しかしふと「仕事」の道すがらに路肩で立往生している黒人家族の車に行き会う。タイヤがパンクしたという黒人の若夫婦に気軽に声をかけて助力を申し出る老人は、その口からふと「ニグロ」という差別的な古い言葉を漏らすが、黒人の若夫婦はせっかく助力を申し出てくれた老人の善意を憚ってか、決して居丈高に抗議することはなく、やんわりと「そんな言葉はもう使われていない」、「黒人と呼んでくれ」と注意する。老人はその言葉を聞いて、やはり顔色一つ変えずに、ああそうかそうかと如何にも気さくな老人として彼らの注意を受け容れる。

それだけと言えばそれだけの場面。劇中にはこの場面に類した、白人社会的な意味での“マイノリティ”との「接触」が繰り返し描かれ、描かれていく度にイーストウッド演じるアール老人は古くから染みついたものだろう差別的な言葉のやり取りを繰り返すのだが、それを繰り返す度にいや増すのは、なぜかアール老人の人懐っこさと憎めなさの印象であったりする。

 

映画には「演出」と「演技」と言う、キャメラを介して映画を撮る側と撮られる側と双方が担うべきとされる、言わばコミットの概念がある。だが具体的な画面を前にしたときに、そこに映し出されているものが「演出」であるとか「演技」であるとか言うことは、映し出されているものを理解するための方便にこそなれ、映し出されている画面の中の現実そのものを言い当てることにはならない。

 

劇中、イーストウッド演じるアール老人は、なぜかしら憎めないそのキャラクターで、あちこちで言いたい放題に憎まれ口や軽口をたたき、あるいはときに説教を垂れる。一見、一部は差別的で昨今のポリティカルコレクトネスにもひっかかるようなその「接触」の言動に、それでも「なぜかしら憎めない」と言う感覚がもたらされるその所以のありようを、果たしてそれは「演出」なのか「演技」なのかと問うても、詮無いことはあきらかだろう。

それは何にもかえて、アール老人=イーストウッドという等式がそこに成立しているからこそ通用する、それだけのことだからだ。たとえ、「演出」と「演技」を兼ねた自作自演の演出家兼演技者がいたとしても、それだけで具体的な画面の中でそれが受け容れられるわけではない。この映画の、如何にもこれ見よがしな「接触」の言動のあれこれは、ひとえにアール老人=イーストウッドという映画の中でだけ成立する、言わば映画的な「人徳」によって受け容れられるものになるわけで、その事実こそがまさに映画的に感動的なのでもある。何故ならそれは映画の中だけに生じ得る小さな奇跡にほかならないから。

 

グラン・トリノ』のコワルスキーが少年に、本人のいないところで友人の悪口を仲間と言い合え、と教示して見せた、それと同じ次元で『運び屋』のアール老人は憎まれ口や軽口をたたき、説教も垂れる。それはイーストウッドなりの友愛の示し方だろう。それは決してイーストウッドならぬ他の人間に一般化、社会化できるような「良識」にはならないだろうが、しかしその飽くまで“わたくし的”な規範意識は、“わたくし的”であるが故に生身の「接触」を介して伝達されうる。ブラッドリー・クーパー演じる捜査官と朝のダイナーで束の間に交わす会話の最後、「(老人だからこうなったのではなく)自分は昔からこうだった」と話すアール老人=イーストウッドの言葉には、飽くまで“わたくし的”な矜持がにじみでているようにも思える。それは『グラン・トリノ』のコワルスキーにも通じる「伝達者」の矜持でもあるかも知れない。

 

然し乍ら、『グラン・トリノ』のコワルスキーが律儀に「伝達者」として「許されざる者」の末路を演じて見せたのに比して、『運び屋』のアール老人はその如何にも老体然とした緩慢な身振り手振り足取りのありように於いて、死滅の悲惨をすらいつのまにやら回避してしまう。その老体然としたありようは無論現在のイーストウッドの自然体でもあるのかも知れないが、そんな自然体を画面の中に意図的に映して見せるのも無論そのイーストウッド自身であるわけで、その意味ではそれは確信犯的な「演出」であり「演技」でもある。一見覚束ないように見える足取りさえ臆面もなく画面の前に捉えようとするとき、捉えようとするそのことに於いて演出家は演技者の自分を客体視して揺るがない目を保持し得ている。

 

作品としての『運び屋』は、ごくシンプルな構造の映画でもある。繰り返される「仕事」は、その回数の表示とともに黒いトラックが走行する同じ様な空撮によって表現される。同じ様な空撮は、然し繰り返されるたびごとに少しずつ違ってもいて、それは黒いトラックがガレージに侵入する場面の挿入のありかたとも相通じている。

『運び屋』の進捗のリズムは、余分な段取を媒介しない。アール老人がメキシコの豪邸に呼ばれるとなれば、次の場面では既にアール老人はメキシコの豪邸に姿をあらわす。あるいは逆にそれは段取だけで進捗するリズムであるとも言えるかも知れない。最低限のことを示しておけば、あとは自生的に進捗のリズムは成立する。必要な場面と場面、画面と画面を準備して、あとはそれを適宜並べていくだけで、映画は映画になる。

 

老体然とした劇中のイーストウッドが、唯一と言ってもよいような、往年の鋭い眼光を放つ瞬間がある。それは自分の車と併行するように飛行している(らしい)ヘリの存在に、徐ろに気がついた様に視線を向ける瞬間だ。しかしこの瞬間のショットが奇妙にそのシーンの説話的な文脈から浮いた様に見えるのは、その瞬間のイーストウッドが、紛れもなくキャメラそのものに向かって視線を投げかけている様に見えるからだろう。これが奇妙に見えるのは、もし「ヘリに気がつく」というだけのことを図説するだけなら、視線を向けるイーストウッドと向けられるヘリを同一の画面に捉えでもしたほうがより効率的である様に思われるからだ。とすれば、そこでそんな視線のショットを選択したのはあきらかに演出家の意図なのだが、しかしそれはどんな類の意図であるのか。

それは、謎と言えば全く謎の、然し如何にも自作自演の演出家兼演技者らしい選択かも知れない。それは、敢えて言えばなんとでも言える、全く内実のない謎なのだ。然し内実のないそのショットの中の自らの視線が、否応無く見る者の視線を捉まえてしまうことを、イーストウッドは知っている。問答無用に、臆面も無い視線は視線を本能的に捉まえてしまう。それが(それこそが)正しく、映画だと言うこと。