映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994/日本/119分)高畑勲

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「漫画映画」。漫画の漫画たる所以は平面的に描かれることであって、つまり必ずしも立体的な構図を前提としない。平面的に描かかれることにあっては記号的な表徴が支配的になり、描線は立体の細部というよりは平面の図式と化し、つまり描線が描線それ自体として際立つことになる。描線が描線それ自体として際立つということは、その描線がありていなリアリティの枠にとらわれなくなるということで、だから「漫画映画」とはのたうちうごめくところの描線それ自体の映画となる。

狸達の変化(へんげ)が縦横に描き出される。それは勿論ありていなリアリティ描写に留まらず、むしろそんなリアリティ描写をも描き方の一方便として呑み込む多様な漫画表現のリアリズムでイメージを展開する。それはリアリティ描写に留まらないものである以上、何にその範を置くのかと言えば、日本人が古来描き出してきた想像の中の狸達の姿に範を置くことになるのだろう。つまりそれは、もとよりが人間=日本人との歴史的な相関の中にある狸達のイメージなのだ。

劇中、妖怪大作戦が決行されて、夜のニュータウン百鬼夜行が闊歩する場面。その中で屋台に酒を酌み交わす老人二人の背後で百鬼夜行が縦横に行き交う長めのショットがある。老人二人はちょうど古来からの妖怪変化の類のことを酒の肴に話しているのだが、その背後では奇妙に遠近を欠いた質感で当の妖怪変化の類が横行している。それは屋台の枠組がちょうど画面を縁どるように構図化されている為に、その後方との遠近を欠いた質感に見えるのだが、その立体感の喪失はそのままそこに展開されるイメージとの距離感の喪失を図案化しているように見える。

イメージとの距離感の喪失は、イメージが主体にとって実体ではないことを示す。実体ではないイメージだからこそ、それは無限に近しく同時に無限に遠い。何しろ距離がないのだから、実体としてそこに到達することはあり得ない。この映画の狸達の幻術は、そんな距離感を喪失したイメージとして描写される。触れられるほど目前にあるように見えるが、決して現実には触れられないイメージ。だがそれは、まさしく映画そのものでもある。このアニメーション映画の「漫画映画」的リアリズムは、ありていなリアリティ描写をも一方便として呑み込み、描線それ自体ののたうちうごめく、文字通りの「動く絵」としての表現を全うする。

「動く絵」としての「漫画映画」。たとえば狸が人間的に戯画化された戯画的狸(この映画に寄ればそれが狸本来の姿)から動物的な現実的狸になりかわり、はたまた単純な描線の漫画的狸になりかわる、そのメタモルフォーゼは、飽くまで動画的な錯視の中で描出される。はたと省みれば、なぜそんなことがすんなり受容されうるのか。それは、そのイメージが決して現実に存在するものの表象としてではなく、イメージそれ自体として表現されているからだ。イメージそれ自体が描線それ自体として表現されること。即ちイメージ=描線として表現されること。「動く絵」は実体の仮象ではなく実体そのものなのだ。それが実体そのものとして運用されるからこそ「漫画映画」も成立する。

人間=日本人との歴史的な相関の中にある狸達のイメージは、それ自体が描線の実体=漫画として観客の前にあらわれる。漫画としてあらわれる狸達は、ありとあらゆる仮象に身をやつすことそれ自体をそのキャラクターの本性として生きている。つまりそこには判然たる実在がない。判然たる実在がない以上、その半分はそれを眺める観客自身の似姿ともなる。この映画の狸達は、半分は人間、半分は自然、その対立ではなく矛盾に分裂しながら生きる。「人間離れした人間」として生きることを強いられているのは、何より人間それ自身ではないか、というわけだ。

実体としての距離感を喪失したイメージそれ自体としての百鬼夜行は、映画という媒体そのものだ。あまりにもリアルな夢。それはだから、夢のリアルとして描線それ自体のリアリズムに徹することで、逆説的にそれ自体で実体と化すことにもなる。だからこそ百鬼夜行の場面は美しい。そしてそれは、狸達にとっては命懸けの仕事なのだった。
半分は人間、半分は自然という分裂は、表現的には半分は戯画、半分は現実という分裂にもなってはいる。狸達や人間達の死のイメージをけっして作劇からはずさないこの映画の構成は「漫画映画」としての明朗さに影を差すものだが、その矛盾を看過できない感受性なくしては、こんな映画自体ありうべくもないわけで、それは必然的な瑕疵となっているように思われる。