映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『おもひでぽろぽろ』(1991/日本/118分)高畑勲

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1991年時点での1982年と1966年の物語。つまりは過去の物語。映画の物語本編の中では1982年が現在で1966年が過去というかたちになっているが、1991年の映画の観客からすれば1982年も1966年も近くあろうが遠くあろうが過去には違いない。原作漫画が1966年の子供時代パートだけで成り立っていて、大人時代パートを映画オリジナルで付加するにせよ、それが1982年でなければならなかったのは何故なのかと言えば、そこには作劇上の整合性という都合もあろうとは言え、一方にはその舞台となる山形に、まだ「田舎」と言いうる風景が街並を含めて色こく遺っていることが求められたからではないか。そのうえで展開される映画の物語本編は、言わばその中で描かれることのない「現在」を縁取りとして、1982年の過去とさらにその中の1966年の過去という入れ子構造的な二重の過去時制に於いて語られるものとなるように見える。

このアニメーション映画では、漫画原作の子供時代パートにあっては漫画的な記号表現による演出も積極的に活用されるが、映画オリジナルの大人時代パートにあっては表現のリアリズムを思わせる演出が懸命に試みられている。
子供時代パートにあっては、大人時代からかえりみられたヒロインの心の中のイメージとしてくくることができることもあって、場面は自然な余白を活かした淡い画調の背景の前で展開され、余分なものの映りこまないすっきりした画面として印象することになる。翻って大人時代パートにあっては、場面ははっきりした色調とデッサンの画面の中で展開され、そこにはヒロインの意識にイメージとして映っているだろうものも映っていないだろうものも、客観的に描きこまれている。
しかし何より子供時代パートと大人時代パートで演出が異なるのは、人物への「演技」のつけかたなのではあるまいか。この映画は事前に演者の音声を採っておくプレスコ手法で制作されたというが、そのことに於いても子供時代と大人時代の人物の「演技」、とくにその表情のつけかたははっきり分けられている。
子供時代パートにあっては、とくに印象的に残像するのはその目、もっと言えばじつはその白目の余白で、黒目の動向を白目の余白がそれとなく見えるかたちで支えているのがことに意識される。そんなものが意識されるのは、それだけ子供時代パートに於いてはヒロインのタエコをはじめとして皆が皆、目の表情が豊かにその感情の振幅を表現しているからで、それはさらに漫画的な目の表情の形式的な戯画化と相まって、効果的に人物達の感情を見る者に伝えることになっている。それが大人時代パートにあっては、顔面全体の表情筋の描写に力点が置かれることになる。だが表情筋の描写はいかにも大人らしい表情の微妙なニュアンスを表現するかに思えて、そのじつそれをセル画の描線と陰影だけで再現するには無理があったらしく、顔面の中の描線と陰影のうごめきが如何にもわざとらしい表層だけのうごめきに見えてしまうことになっている。
プレスコ手法は主に後者の大人時代パートの作画に大きな影響をもたらしただろうことは判る。顔面の表情筋だけではなく、その首まわりの微細な仕草の「演技」もプレスコ手法なりの追随的な描写で、確かそこに描かれる人物のキャラクターを細部に於いて描出しえているように見える。それは人物間のちょっとした間のズレやタイミングの一致不一致をも描出していて、地味にだが確かに効果をあげている。それをこそ表現したかったのだとすればそれは成功で、如何にも「リアリズム」の模索として意味のあることだった筈だが、しかし顔面の表情筋が前景化すると、その作為的な「リアリティ」への違和感が印象の全体を覆ってしまう。

この映画の物語の構造が、入れ子構造的な二重の過去時制によるものだとすれば、その過去を過去たらしめる現在がどこかの時点に設定されなくてはならない。それは1991年ではない。1991年という時点には作劇上の意味はないからだ。ならばこの映画の物語を全て過去のものにする決定的な契機、その時点はどこにあるのかと言えば、それはこの映画で唯一の決定的な出来事としての、タエコの結婚への決意だろう。タエコが東京へ帰ろうとする途上に、不意に思いを変えて歩みを返し始める時、彼女の手を引き後押しをするのは、かつての10歳の頃のタエコ自身やクラスメイト達のイメージだが、それでいざタエコがトシオと向き合ってふたりで画面から歩み去っていく時、映画の最後に画面の中に遺されるのは、10歳のタエコ自身、そのひとりぼっちの姿だけなのだ。それはまるで、『火垂るの墓』で全てを見届けてなお彷徨い続ける兄妹の幽霊のように、暗闇の中に立ち尽くす。大人になったタエコは、もう10歳のタエコを思い出すことはないのかも知れない。それは10歳のタエコを置き去り葬り去ることであって、即ちそれは死のイメージにも通じる。この映画の物語の全ては、ここに過去のものになる。過去のものになるが、しかしそれを過去にする現在は、過去の死のイメージに飽くまでも留まり続ける。
10歳のタエコのイメージを、誰ももうふりかえらないのか。しかしイメージを描く人はイメージを見つめる人でもある。この映画の演出家は物語の最後に誰からも顧みられることのなくなる10歳のタエコのイメージをそれでもそこに描いた。それは一人の子供が、如何によくもあしくも平凡な人間へと育っていくかという人間関係の積み重ね、そのつかの間の機微を体験した10歳の肖像であって、それを忘れ去ることはその10歳と共にあったかつての人間達の肖像をも忘れ去ることになることを、この映画の演出家は判っているから、そこにそれを描いた。死せる人間達の面影を忘れない(…忘れることができない)ことの業を負っているからこそのそのイメージだったのではないか。

高畑勲の音楽演出は、たとえば宮崎駿にくらべると自覚的で知的であるように思える。即ち批評的でもあるということ。山形の狭隘な農村の風景に東欧の民族音楽的な楽曲のイメージが重ねられていく演出を見ると、宮沢賢治イーハトーブ幻想のような、在郷有識者のロマンティシズムを想起させられもする。そういうイメージの助けを借りようとすることは、目の前の現実を作り変えようとする時の精神的な動力源にはなることで、けっして浮ついた描写ではない。だがそれが動く密室としての車のイメージと共に重ねられていくことには一種の批評性もあるように思える。動く密室としての車は一見開放的なイメージをまとうその楽曲にそのじつ閉塞的な空間で接しているという逆説がある。動く密室としての車はこの映画では外景の雨天などの状況を活用して豊かな対話の空間としても機能しているが、農業の未来を夢想するトシオのイメージはその密室にも結びつけられている。
音楽は密室で鳴っている。密室で鳴っている音楽は暗闇で鳴っている音楽だ。そして暗闇で鳴っている音楽とは即ち映画の音楽ではないのか。高畑勲の音楽演出は決して趣味に留まるものではなく、映画の音楽演出だった。