映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『ペパーミント・キャンディー』(1999/韓国、日本/130分)イ・チャンドン

f:id:menmoku:20190615162607j:plain

 

それは青年が見た末期の夢。

 

1979年から1999年までの20年間の、ある韓国人の一男性の半生を遡る物語。時間を「遡る」、その逆行のイメージを、この映画は一見あまりにも素朴な、前進する列車の最終車両から撮影された、過ぎ去っていく後景の線路の映像の、その巻き戻しによって表現する。その映像の中では、線路は後ろへ後ろへと進みゆかれるばかりでなく、桜の花びらは枝にまい戻り、車や人や犬も逆さ向きにこそ動く。巻き戻しの映像なのだから、そんなことは当たり前のことだろうか。しかし、巻き戻しの映像とは言え、それが現実に再生され、つまり映像が体験される時間自体は、じつは不可避的に前に向かって進んでいる。つまりそこでは時間が、後退しながら前進している。

リュミエール兄弟の監督した作品に『壁の破壊』という短編がある。一言で言って破壊される壁の巻き戻し映像なのだが、それは実際の成立の経緯ははっきり判らないとは言え、その映像の中で人夫達によって破壊された筈の壁が粉塵の白煙の中からにわかに再生された姿をあらわすそのなりゆきに、当時の素朴な観客達は驚異の目を向けたものらしく、それは映画の歴史上で初のトリック映画として記憶されるものでもあるらしい。リュミエール兄弟の映画創成期にまつわる挿話としてもっとも人口に膾炙しているのは、やはり『列車の到着』に当時の素朴な観客達が驚異の目を向けたという逸話だが、『ペパーミント・キャンディー』の時間を遡行する列車からの映像には、そんな映像の原初的な夢幻性が潜在してはいないか。

原初的な夢幻性とはだいぶ曖昧な表現にはなるが、それは後退しながら前進しているという一見矛盾したベクトルの運動が、まがいなく一つの表象に収められてそこに蠢いていることに由来する。『列車の到着』の映像は、恐らく決して実物と取り違えられたわけではない。然し、映像は映像としてそれ自体が実物で、表象はそれ自体で成立するのだ。枝にまい戻る桜の花びらは、巻き戻しの映像ではなく、それ自体で不可思議な実物なのだと言うこと。だからこそ映画は物語を語り、観客はそれを信じ得ると言うこと。

 

ペパーミント・キャンディー』の各挿話は、ある一男性が辿る人生遍歴の中の幾つかの場面が、時系列的には遡行する形で物語られていく。これは然し、映画の物語話法で一般的な、回想場面挿入の大掛りな導入に過ぎないとは、恐らく言えないだろう。何故なら、回想場面を回想場面として作劇の構造に於いて支えるのはそれ以外の場面の現在時制としての担保あってこそだから。映画の場面としての現在時制はじつのところ作劇内部に於けるディテールの相関によってしか決定されないが、この映画の各挿話の作劇的なディテールの全ては、飽くまでも時系列的な現在から過去へと物語が“進む”ほどに事後的に補完されていくものでしかない。あの涙の所以、あの名前の所以、あの仕草の所以、あの言葉の所以。全てがまず現在にさしだされ、それからまたその全てが過去にさしもどされる。それのありようは、一般的な映画の物語話法の中で、回想場面が映画の中の現在時制に従属的な説明的補足として挿入されるありようとは、まるで異なっている。

あの涙、あの名前、あの仕草、あの言葉。それらは映画の作劇的なディテールとして、現在から過去へと遡行する物語の中に布置されるが、それらは布置されるのみで、この映画はそれを因果的な説明の中へと構成することはない。なんとなれば、劇中の当事者達はまがうことなくその場面その場面で現在を生きていて、それが自分の未来にどんな意味をもってくるのかを予期すらしないからだ。予期すらされないその未来は、だからやはり物語に於ける普通の意味での現在ではない。映画の中の現在は飽くまでその場面その場面であって、だから1999年として措定された年代は、じつは1979年として措定された年代と本来的になんの位相的な差異をもたない。

 

この物語の現在が過去と未来の狭間にサスペンドにされる時制の構成は、だからあの「後退しながら前進している」巻き戻し映像と相応している。一見矛盾した運動のベクトルをはらみながら、それを一つの表象に収めることで、そこに映し出される現在は、過去でも未来でもない、この現在としての“リアル”を得ることが出来る。それは過去や未来に組み込まれる説話的な“リアリティ”ではなく、掛け替えのない現在として人生の断面としてのその場面その場面を輝かせることにもなるだろう。

だからこそ、これは「青年が見た末期の夢」なのだ。1979年の青年が、一瞬間に垣間見た自分自身の人生の夢。それはじつは青年の脳裏にすら過らない、映画を現に見ている者だけが認識するだろう青年についての「夢」でしかないのだが、映画とはつまりそういうものでしかないことを、その語り手は自覚するのだろう。青年のまなこに滲む涙は、だから物語の中の何某かの感傷の表現なのではない。映画が物語を語るという事実がもとからはらんでいる感傷の機構の具象化なのだ。

 

1979年から1999年までの一男性の20年の人生遍歴を辿り綴る映画が、それから20年を経た2019年にふたたび映し出される。たとえばこんな単なる偶然の数字の布置が、もし単なる偶然に見えないとすれば、それはそれで映画が物語を語るという、感傷の機構の罠に落ちていることを意味する。あの涙、あの名前、あの仕草、あの言葉に、なぜ掛け替えのない意味があるように感ぜられるのか、そんな謎の生まれる所以も恐らくそこにある。