映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『さよならくちびる』(2019/日本/116分)塩田明彦

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女性二人の今まさに唄を歌うくちびるがつむがれる言葉に合わせて蠢く、その様子が、演技でありながら演技でなく、また演出でありながら演出でなく、くちびるが蠢くその様子そのものとして画面の中に映える。生きている、と言うことなのだと思う。

 

ロードムービーとは移動する車窓の映画、と宣ったのは誰だったか忘れたが、その意味で、この映画は確かにロードムービーだと言える。そして移動する車窓の画面はじつはそこに映りこむ人物の画面でもあり、そこに映りこむ人物がいなければ、むしろ移動する車窓の画面も映画としては成立しない。映画が映画であるかぎりそこには物語があり、ロードムービーが移動する車窓の映画であるならば、その映画の物語は無論移動することをもっぱらとする旅程の物語になるだろう。

物語とは、映画にとってそれ自体が映画を具体化するための装置であって、言わば映画を詰めこむための空の器でもある。この映画ならば、解散を決意した女性デュオとその男性ローディーの巡業記という体裁がそれにあたるが、そこでその巡業記を映画の物語足らしめているのは、あの黒いRVの存在そのものだ。あの黒いRVは一人の運転者と二人の同乗者の位置を入れ替え立ち換えしながら、その時毎の三人の関係の状況を反映する具体的な装置となり、また物語内の時間の進行や空間の移動をごく単純な人物から人物への切り返しの中で表現する装置ともなる。

 

巡業記の表面には、とくにドラマらしいドラマは起こらない。物語の主題とされるのがじつは三人の間の心理的な距離感である以上、要はそれを生み出すことになった三人のそれまでの関係、即ち過去が問題とされるほかなく、したがってこの映画は回想やそれに伴う述懐を多用することにはなる。だが、そこで展開される過去と現在の関係は、現在へ説話的に接続する客観的な時制として過去が描かれるのではなく、むしろ現在の人物の実存する意識の中に主観的に生息し続ける挿話として過去が描かれる。それが直観的に触知できるのは場面毎の風音のオーバーラップで、それがこの映画の中では、過去から現在にかけて時制を越えてオーバーラップする。

 

脚本としての予めのイメージを越えて、演出として画面そのものを息衝かせる風と光。

風と言う、本来目に見えない筈のものが映画の画面の中で主要なモチーフとなりうるのは、その運動によって表層を揺らめかせるあれこれのものの表情をこそ、映画の画面が捉えるからにほかならない。この映画では、それはもっぱら緑の木々の梢として映し出される。風を風足らしめるためにこの映画が選んだ触媒は緑の木々の梢なのだ。そして緑の木々の梢は、昼間の明るい光をその総身に帯びてこそ、画面の中でその緑の美しさを溌溂と発散する。だから、この映画では風は飽くまで昼間の明るい光の中のモチーフでこそあれ、宵闇の中に風が吹くことは決してない。

昼間の明るい光は、緑の木々の梢のみならず、あちこちでこの映画の世界そのものを祝福するかのようにその細部を輝かせている。街の寂れた路地裏も、山中の湖の水面も、ひとしくありふれた昼間の明るい光によって祝福されるかのように輝く。そしてこの映画の中の光は、宵闇の中にあってもやはり輝く。各地のライブ会場でハルレオの二人を照らし出す光はつねに橙いろの暖かい光で、ラストライブを終えた後の函館の街路の街灯もまた、同様な橙いろの暖かい光で三人の乗る車の行方を照らし出す。

これだけの風と光につつまれた三人の旅路は、それ故けっして三人がうつむいて終わることはないだろう。風と光は、審美的な漠然としたイメージとしてではなく、その場面毎に現実に息衝く現象として画面の中に投影される。だからこそそれは、三人の旅路がまがうことなき現在の旅路であることを自ずから証する。

 

ハルとレオの二人が車を降りると、先を争うように前へ前へと歩く。そんなふうに、この映画の人物達は画面の中で、あるいはその内と外とで、動いて回り、出入する。最初のライブでレオの到着を待ちわびるハルとシマのツーショットの向こうに、不意にレオの姿が過ぎる。瞬間的に過ぎるレオの姿を見とめて、カットが変わりハルが急いでその後を追う。なんとも言い難いが、たとえばそんな瞬間の微妙な間(ま)の連鎖そのものが、運動そのものとしてこの映画の画面をその都度息衝かせているように感ぜられる。車の中にあっても、たとえば山中の湖畔でシマが運転席に戻ってきて、しばらく息を整えた後、徐に助手席に目をやると丁度ハルがそこに入り込んでくる。入り込んでくるそのことへの意外さの印象は、画面が当たり前のように助手席から運転席のシマを捉えているカットの定石が効いていればこそ、判然と際立つことになる。

 

「レオ」と言う相棒と同じ名をもつ少女がハルの前に束の間あらわれる。場所と年月日まで刻印される現在の場面にくらべて一体いつの話なのかも曖昧な過去の場面と同様、少女のそのようなあらわれかたもまた、この映画の物語が判然たる過去と現在の時制にしばられた物語ではないことを示す。同じ名をもつ少女は、言わば暗喩として「レオ」の幼少時代そのもので、だから同じ気配をもつその女親はシマに粘着的な視線を向けることにもなる。

こんな仕様で人物を描き出すこの映画では、過去の挿話は現在に通時的に従属するものではなく、むしろ人物達の意識の中に共時的に潜在する心理的なモチーフとしてある。だからこそ人物達はあっけらかんとして互いに互いの心情を告白する。言葉は飽くまで言葉でしかなく、暗黙裡に共有された記憶としての経験そのものとは自ずから代替しえないものであること。それを三人は無意識に分かり合っているからこそ、言葉はむしろあからさまにあっけなくこぼれ落ちる。

 

そこに演じられるのは、だから三人の共犯関係なのだと言ってもよい。幾度となく重ね合わされた経験が、言葉よりも三人を三人としてむしろ結びつける。自分がプレゼントしたバンドがハルの腕に巻かれてあることを見とめたレオは、然しどんな言葉をかけることもない。何故ならそれは今更言葉で指摘されるべき事柄ではないからだ。今更言葉で指摘されるべき事柄ではない真実の秘匿が、むしろ互いに互いを暗に結びつけていること。それを秘匿を共有する共犯関係なのだと論うとすれば、言わば再犯に再犯を重ね合ってきた三人が、最後にやはりまた再犯を重ね合うことは、自明のことでさえある。

「さよなら」と嘯きながら、それが決定的な決別に至らないのは、それを歌い続けることが三人の日常の営みだからで、その意味で日常が日常であり続けているかぎり、三人は三人の儘でいることが出来る。

 

演技でありながら演技でなく、また演出でありながら演出でなく、人物達とその関係が、実在として画面の中に刻印される。そんな映画足りえている。そう見える。