映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『勝手にしやがれ』(1959/フランス/90分)ジャン=リュック・ゴダール

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映画を見た者に「映画を見た」と信じさせるのに、もっとも端的で有効な方法は何かと言えば、「物語をわからせる」ことではないか。「物語をわからせる」とは、そこで示されていることを言葉に翻訳して自分で語ることが出来るようにする、と言うことで、だから映画を見た者に「映画を見た」と信じさせようとする映画は、その映像と音響の複合を、言葉に翻訳しやすい脈絡で組織しようとする。

 

しかし、言葉が映像の具体像の何であるかを捉えうるとは、それ自体がひどく曖昧な幻想ではあるまいか。この映画の中に映し出されている筈のもので言うのなら、たとえば「パトリシア」と、その物語上のヒロインの名前を言葉にすることで、一体何が捉えられていることになるのか。「パトリシア」と言えば、ジーン・セバーグという女優が演じているとされるあの短髪ブロンドの若い女の肖像を思い浮かべるかも知れない。だが、たとえば90分ある映画本篇の中で、その若い女はまさしく取り留めもなくあんな顔やこんな顔を見せ続けるわけで、そのあんな顔やこんな顔の中で、一体全体そのどれが「パトリシア」という指称に真に価するのか、誰にわかるというのか。

もしかすれば、演じるところのジーン・セバーグ自身すら演ずるべき人物としての把握が覚束なかったかも知れないその「パトリシア」は、だが紛れもなく映画の画面の中にだけは生きている。画面の中であんな顔やこんな顔を見せ続ける若い女の肖像そのものとして、彼女はそこにいる。そして画面の中の彼女は、決して静的な一個の肖像に落着することがなく、動的な取り留めのない脈絡の中で、あんな顔やこんな顔を演じ続けることになる。あるいはその総体が「パトリシア」なのだと言ってみたところで、そんな総体としての「パトリシア」は、飽くまで90分という時間の中で具体的に残像し続けるものについての漠然とした抽象的なイメージでしかない。

 

映画には時間的持続があり、時間的持続のあるかぎり、何某かの次元での「物語」がある。しかし「物語」は、たとえば「xがある」だけでは生まれることはない。そこには「x」と関係する「y」が措定されねばならないし、物語とはその関係如何の記述の変数として表象される一定、一連の持続的脈絡のことであるだろう。

たとえば「男の子」と「女の子」。問題は此の「と」であって、そこに示される断絶と接続の関係がなければ、映画は物語足り得ず、物語足り得ずばそれは映画足り得ない。たとえばキャメラの前に鏡がある。しかし鏡があるだけでは映画は生まれない。そこに人という被写体が映りこんではじめてキャメラは、鏡と人、人と鏡という関係を画面に映し出すことになり、映画が生まることになる。映画が生まれるとはつまり物語が動き出すということで、この映画ならそこに「男の子」と「女の子」の断絶と接続が描き出されることになる。

 

映画は、けれども物語とは無縁のところで、具体的な事物を表象する媒体でもある。この映画なら、たとえばパリの昼夜の街並の中に拡散し、また集約される、陽光や灯光の白さ、あるいは青年が幾度となくくすぶらせくゆらせる煙の有耶無耶な象(かたち)。それは物語と呼びうるものにほとんどなんらの寄与もなさないが、それでも映画の欠くべからざる細部としてモノクロームによる画面を構成する。それは物語と呼びうるものに寄与をなさないその故にこそ、むしろ世界の無為の豊かさそのものをそこに刻印する。世界はこのような細部でできている、できているそのことは無償の贈与であって、物語のような有為に帰せられないからこそ、世界の豊かさそのものの謂いともなる。

 

映画は世界を表象する。それは視線を媒介とする。映画のキャメラは世界への無為の視線であって、そこからこそ世界は映画の中で開示されうるものとなる。だが視線が視線である為にはそこに視線を受くるものとしての被写体がなければならない。世界が映画の中に開示されるのは、つまり被写体とキャメラとの関係を通したときだ。

たとえば、そこに「男の子」と「女の子」がいるのなら、そしてそこに「愛」が語られなければならないのなら、映画はその二人の視線と視線の関係をこそ、そのキャメラの視線の中に捉えようとするだろう。二人は見つめ合うが、「見つめ合う」視線そのものを映画は表象することが出来ない。男は女を見て、女は男を見る。映画は、女を見る男と男を見る女を各自の被写体として映し出すことが出来るだけだ。

劃して男女の視線と視線は交錯する、しかしそれは映画のキャメラの視線を媒介することでしか映画の中に表象されえない。視線と視線は、だから映画の中では完全に同一化されることはなく、同一化されない視線と視線は互いに互いを捉えようとして捉えそこなう断絶と接続を演じ続けることを余儀なくされる。

 

主役の男女が、幾度も映画のキャメラと直接に交錯させる視線は、この映画の存在そのものを視線そのものとして画面を見つめる意識の中に顕在化させる。男女を見つめるキャメラは見つめかえされる存在として、その偽装された超越的特権性を剥奪され、物語の存在論的次元は、言わば「いつかどこか」ならぬ「今ここ」のまぎれもない顕現性の中に担保されることになる。つまり、物語が地に足をつけることになる。モノクロームの黒白せめぎ合うパリの街並を映し出すキャメラは、自らの中に物語を収めるのではなく、言わば物語の中に自らを収める。

 

なんとも曰く言い難い映画。だが、キャメラの前に在るものを在るが儘に映し出し乍ら同時にそこに映画=物語をもたらすことのリアルは、言わばキャメラによって世界を表象する媒体としての映画の存在論的なリアルであって、存在論的なリアルであると言うことは、それはつまり掛け替えのない生(実存)のリアルでもある。

全ての映画がそうなのかと言えば、無論そうなのだが、なまじ尤もらしさ=リアリティを偽装しがちな映画一般にあって、そのリアルは、無償に輝くものと自分には思われる。だがそれこそが、曰く言い難い。

パトリシアが可愛いとか、パリの街並が美しいとか、ジャンプカットがどうであるとかロングテイクがどうであるとか、あの映画やこの映画からの引用がうんぬんだとか、語りのとば口としての断面はあれこれあるに違いないが、そういうものであり乍ら同時にそういうことでないような、現にそこに画面が躍っていることのリアルな奇跡性みたいなこと自体は、本当に曰く言い難い。

 

一本の映画は、そのほかのあれこれの映画なくしては存在しえないが、同時にその映画はその映画だけで掛け替えのない現実でもあり、歴史や人生が一回性の賜物であるならば、あらゆる一本の映画もまたそのようなものであって、こんな映画は、そんな奇跡性を具体的なフィルムの中に象(かたち)として宿らせた、そんな映画のように思えて仕方ない。