映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

メモ:『犯罪都市』『ブラッディ・ガン』『台北ストーリー』『ロビンフッドの冒険』『わたしは光をにぎっている』『AKIRA』『スケアリーストーリーズ 怖い本』

犯罪都市』(2017/韓国/カン・ユンソン

犯罪都市」ソウル、その混沌としたローカルな地域性がどこまで現実に根差すものかは判らねど、活劇の舞台となるにはこんな国際化と地域性の鬩ぎ合う社会的背景は欠くべからざるものなのかも知れず。1stショットで何気なく映る万国旗はその意味で象徴的。抽象的な「空間」ならぬ「場所」の具体性。

やはり韓国映画らしい「顔」の映画。見栄えのする路傍の石のような顔また顔の男達。その男達をアクションの具体性でキャラ立てする説得性。事あるごとの刃物、手斧、その他の得物のバリエーションを用いた肉弾戦。スマホならぬ折り畳みの携帯電話を印象的な小物として活用。

「映画」を自国で産み出す本当の「ローカライズ」。

 

『ブラッディ・ガン』(1990/アメリカ、オーストラリア/サイモン・ウィンサー)

アメリカ人は好きだ、言葉でなく行動で示してくれる」

アメリカ人に生まれたかったよ」

などと言う台詞にも滲む作り手の西部劇=アメリカ映画リスペクトが、銃器による銃撃の細部描写の確かさとして結実する。決して描写の為の描写に陥らない、作劇そのものに活用される段取描写。

画面外からの狙撃というアクションの、「不意を突く」という映画的な趣向の普遍性。次の瞬間に何が起こるか判らないという、映画のサスペンス的な本質がそこには露わとなる。それを細部描写の確かさによって虚構の中に定着する演出の仕事。

役者のほのかにまとう「アウラ」が、より映画を映画にする。

 

台北ストーリー』(1985/台湾/エドワード・ヤン

心理などという抽象をあらかじめ自明の如く想定するのではなく、具体的な人物の肖像を空間との相関の中に捉えることで、画面は有機的な「場所」を映し出し始める。空間が空間でしかなければそれもまた抽象だが、そこに人間が介在することで時間が回り始める。即ち「映画」となる。

古今あれこれの建築群。中国語、日本語、英語の混在する無数の広告や看板。移動する車やバイク。明滅し、揺動し、渾然一体となる光と影。落書、ガラス窓、絵画、ビデオ、電話。これら都市の肖像が、けれど審美的にはならないのは、そこに人間が蠢いているから。

紫煙を燻らせ嗤う男、黒眼鏡を掛ける女。

 

ロビンフッドの冒険』(1938/アメリカ/マイケル・カーティス、ウィリアム・キーリー)

早回しアクションは古典的な「映画らしさ」だが、その尤もらしさに阿らない微妙な変速の緩急は、素朴に稚気じみてむしろ好ましい。

空気の動くたびに揺らめく姫のヴェールは、受動、能動かまわずその動態の表徴で、それ故にこそ美しい。

王城内の縦に抜けた大掛かりなセット設計。

これは何気に、後の『カリオストロの城』や『スター・ウォーズ』を産み出すイマジネーションの素地となるような作品ではあるのやも知れず。文字通りの「王道」活劇。

 

『わたしは光をにぎっている』(2019/日本/中川龍太郎

冒頭、黒画面、女性の鼻唄らしい声音が聴こえてくる。そして1stショットに映し出されるバストショットの松本穂香。この時点でもう疑念が湧く。鼻唄らしい声音が誰のものなのか判然とせず、それが物語として機能するでもなく、言わば風景の一部のように素気なく流れ去る。

「叙景的」とでも言うのか。あまりにも安直に全てをイメージとしての映像に委ね過ぎる。そこには漠然としたイメージに仮託された風景とその一部としての人びとの姿があるばかりで、言わばそこでは誰も、何も、本当には動き出すことがない。場面や画面の連鎖もまた順接的で、そこでもやはり動きは生み出されない。

 

『AKIRA』(1988/日本/大友克洋

○の形象は、このアニメーション作品の潜在的に一貫した図像、モチーフとしてある。それは超能力者が周囲の物体に具体的に及ぼす「力」の基本的な表現の形象として描出されるが、その形象が○になるのは、それが力の均衡を示す象徴的な形象であり、それ故に宇宙的なスケールをも感知させるからではないか、とはひとまず言える。

微に入り細に入り描きこまれた具体的で複雑なモチーフが、見えない「何か」に圧され、倒され、捻じられ、曲げられて、そこに空間的に切断された○の形象が暗に現出するという一貫された表現は、本当ならば全く荒唐無稽な筈の「力」の存在を、恰も物理世界への超越性の顕現であるかのように説得的に提示してしまう。

展開に次ぐ展開で、しかし詰め込み過ぎの閉塞感は覚えさせず、長丁場を乗り切るタフな作劇を牽引するのは、常に目の前の事態に対応しようとする、動き続ける人物達。

そして目の前の物事のあからさまな変容がなされようとする瞬間、ヒトは本能的に目を瞠る。驚異に驚愕する目、センス・オブ・ワンダー

 

『スケアリーストーリーズ 怖い本』(2019/アメリカ/アンドレ・ウーヴダレル)

たとえ超常現象であれ、否、むしろ超常現象であればこそ、虚構の中の辻褄はある一定の線で一貫していなければならないのではないか。一定の約束事がまもられるなら、後はアイデアとして何を盛りこんでも良いが、逆にそれが無ければ結局「御都合主義」に堕してしまう。

本が持ち出され、いつかどこかで聞いた話の現実化としての災厄が始まる。そんな設定ならば物語の収束はそれに応ずる形で成されなければ、その間に起こったことが一体なんだったのか訳が判らなくなる。その「御都合主義」の中では結局登場する怪物達の見世物性が印象されるばかりで、物語は空転せざるを得ない。

シナリオに構造がない。それを恣意的なダイアログで補填するだけの脚本には、この世そのものの存在論的な暗部に至る路は開かれてこない。ジャンル的な「御約束」に曖昧に便乗するだけでは、その枠組内での御遊戯の巧拙が露呈されるだけで、映画が「映画」ならざるものと遭遇する恐怖に至ることがない。