映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

メモ:『星屑の町』「心の傷を癒すということ」『37セカンズ』『響 -HIBIKI-』「女川 いのちの坂道」「盲亀浮木~人生に起こる小さな奇跡~」 「ストレンジャー~上海の芥川龍之介~」

『星屑の町』(2020/日本/杉山泰一)

あるいは贔屓目なのかも知れないが、ならば見る者を贔屓目にさせる一際な何かがあるのだと、この映画の活けるのんさんを見ていても言いたくなる。
演出なり演技なりの狭間からときとして表出する御愛敬。野暮ったい田舎娘のナリなのにそれでも見ていることを眼福と感じさせる天賦のツヤ。

ハンディカムの撮影と無理に切返しを捩込む編集の兼ね合いが、もとより演劇的なものなのだろう演者達の芝居の間合いを有効に画面に活かしているとは言い難いが、それがむしろ意図されざるドキュメントのように機能して、のんさんやおっさん達同士の掛け合いの輪郭を微妙にグラつかせるのは、なんかオモロイ。

 

「心の傷を癒すということ」(2019)

自分を滅してまで患者に尽くす、ではなく、自分が居て患者が居る、人と人の関係なのだと、当たり前と言えば全く当たり前なことがさりげないディテールで描かれる。
東京物語』を介した出会い、本棚の「幻魔大戦」、ジャズピアノ、子供の名前。私人としての人生の豊かさ。

「本当の名前だから」本名を名乗る。「不安」の安から、「安心」の安へ。映画館の闇の中で原節子の聞こえない台詞を聞こうとすること。愛する人の愛すべきその名前を祝すること。そして遺すべき子供の名前を考えること。
相手の言葉を聞くことと自分の言葉を伝えることへの真摯さ、丁寧さ。
演者皆○。

 

『37セカンズ』(2019/アメリカ、日本/HIKARI)

映画的な道義として、たとえば車椅子は護られた聖なる弱者の玉座として見えてはならず、むしろなけなしの手や足や、つまりは戦う為の武器として見えなくてはならないのではないか。
もたざる筈の者が、それでもなけなしの力を動員して現実に抗う時にこそ、映画的な「感動」は生まれる。

顔や体の細部への接写を頻用するキャメラは演者の実存が発するモノを信じているし、演者は臆することなくそれにこたえている。微かな車椅子の動静は俄かに演者の実存の表象となり、瞬間そこに主客はない。
佳山明のか細い声音は、臆しながらも社会的な開けを志す「精神」をこそ、具体として刻印する。

作劇として企図された起源への遡行の旅程は、人生を賭した独力の冒険としてあるべきではなかったか。映画的な道義として、人物は自身の具体性で現実と渡り合ってこそ、自身の物語を生きることも出来る。そこに年月が掛かるものならば、そういうものとして描くべきだろう。
何気に女性達の映画でもあり。

 

『響 -HIBIKI-』(2018/日本/月川翔

文芸の創作者の物語にも関わらず、肝心な瞬間には問答無用で手が出る、足が出る。だがそれ故にこそ、たとえば書棚の本を互いに問答無用で入替するやりとりで、これは、本来が「相対」であつかわれる世界に「絶対」をもちこんだらどうなるか、という話なのだと合点する。

響は飽くまで向き合う相手と一対一での対話を試みる。映画の光や音は暗に明にその瞬間を画面の中で具体化する。その一見苦肉のケレンのような演出がそれでも浮つかずに見えるとすれば、それは平手の表出する抑えられた声音や目線がそこに呑まれることなく響の生理を息づかせているから。

自ら求めて差し出し、そして握り返された両手を何故かしらじっと見つめる仕草。それがなんなのかは判らぬ。だがやはり分からぬではない。それが彼女の「相手」との向き合い方なのだ。
文芸の天才の、しかし肝心の作品自体は具体的に開示されず、周縁と中心、即ち相対と絶対の往還が描かれる。

 

「女川 いのちの坂道」(2019)

モキュメンタリーな作劇の体裁は全篇ドローンで撮影するという手法の為の体裁で、その手法は被災した沿岸地帯の現在の景観を俯瞰的かつ有機的に作品に反映させる為の手法なのだと思われる。人物の移動と連動する視点の移動が、その周辺の、かつて津波が襲った地形の起伏をなぜるように映像化する。

全篇ドローンで撮影される為に、基本ロングショットが多くなる一方、それでも何点かで挿入される近接視点は、人間ドラマ的なシーンでのクローズアップとならざるを得ず、そうなると作劇がなまじモキュメンタリーな体裁であるだけに、そこで撮影行為の作為性が映像の虚構性として逆接的に顕在化してしまう。

ドローン撮影による一人称から二人称、そして三人称へのシームレスな視点の移行を試行して失敗したかに見える。
ノローグ的に被災以来の記憶を物語りする平祐奈の独り歩きと、それにつき従う若者とドローンカメラという、序盤のシンプルな映像的構図こそ本来の意味でエロティックで、つまり映画的。

 

「盲亀浮木~人生に起こる小さな奇跡~」(2020)

30分足らず、何も起こらない。
登場人物はほぼ独りで、遵って台詞も少なく、僅かな細部描写だけで進行。
男は文章を書いているが、その原稿は時に海風に吹かれ、雨晒しになり、天日に干され、そして火に焼べられる。
男が偶然見つけた何かの原稿の題名は、「偶然」。

何も起こらない。
ただ、犬がいた。いたからと言って何がどうなる訳でもないが、いた。本当に、それで何がどうなる訳でもないが。
なんなのかと言えば、なんでもない。なんでもないが、それはあった。

男は声を押し殺すように嗚咽するが、その顔は見えない。

幸でも不幸でも、喜悦でも悲哀でも、恐らくない。


ストレンジャー上海の芥川龍之介~」(2019)

絢爛なロケセットと潤沢なエキストラの中に、芥川でありながら芥川でないような松田龍平の輪郭が、よい意味で、それこそ「ストレンジャー」の如くに「浮く」。
旗袍の女達や男娼の青年、路傍の乞食達や京劇役者、花売りの老婆や少女、革命家。
遠景としての群像。

本篇ほとんどのパートでは芥川視点の現在形のナレーションで語られるが、序幕と終幕のパートでは随伴者の村田視点の過去形のナレーションが置かれる。
それによって、「ストレンジャー」芥川の肖像もまた、はじめて歴史という無数の死者達の群像、その遠景の中に留め置かれるかに見えてくる。
死の運命が生の紐帯となるかの如く。

路傍の屋台や妓楼の円卓での食事。
食べることは、あたえられたなけなしの世界を呼吸することに他ならず。即ち、入れて、出す。それを繰り返すこと。
だから、無造作に食べては捨てる、という一見ぶっきらぼうな仕草で登場する随伴者の村田は、「ストレンジャー」芥川の、いわば「呼吸器」として、束の間その傍らに立つことになる。