映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『火垂るの墓』(1988/日本/88分)高畑勲

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ある人間がある運命を現実に辿ったこと、そのこと自体を良い悪いで判断することなど本来は出来る筈が無いのに、物語として提示された全体を前にすると人は安易にそれを言い始める。物語には帰結があり、帰結があるかぎりで過程もあり、だとするとまるで何と何を足せば何が出て、あるいは何と何を引けば何が出る、といったような計算式でその全体を判断出来るかのように思い込む。しかしある人間が、その時代、その社会、その関係の中で自分という限界をかかえながら精一杯生きようという時に、果たして何を以てそれを良かった悪かったと言えるものなのか。

 

この映画が描くのは、つまるところ一連の出来事によって織りなされたつかの間の固有の人生、その瞬間的な実存であるのに過ぎない。たとえば兄妹はもっとこう生きることも出来たなどと論うことは容易いが、そんなものを論うことで見えてくるのは、所詮は戦争状況の罪悪だの個人の資質の適否だの、物語的な全体の帰結への判断でしかない。物語的な全体の帰結への判断が無意義なわけではないだろうが、しかしそんな判断の前では、現に映画の中に描かれた兄妹の生の事実そのものの尊厳は見失われる。この映画は、兄妹のつかの間の生の在り様をそれ自体として良くも悪くもなく、あるいは良くも悪くもあるものとして描き出す。清太の笑い顔や、節子の泣き顔、それ自体の映画なのだと言うべきなのではないか。

 

笑い顔が笑い顔であり泣き顔が泣き顔であること。その表情が通り一遍の記号的な表現ではなく、描線と陰影でできうるかぎり微細に描写されることで、一種の重みを獲得する。表情の主役を演じているのは、頬の表現かも知れない。泣く時には頬の形を伝って涙がこぼれ落ち、笑う時には頬の形が「く」の字にゆがむ。『おもひでぽろぽろ』では過剰に運用され過ぎて却って違和感を覚えさせていた表情の描写が、ここでは適度に抑制されて、たんなる心理的な記号というよりは、うごめくことそのものによる実存的な肌理=表象として機能している。高畑勲が表情に拘るのは、やはり人物に現実に生きている人間であってほしいからなのかも知れない。

 

この映画では色もまた地味にだが大切な役割を演じている。アニメーション映画には光がなく色しかない。色が光の具合をまで表現する媒体となる。色の設計による画面の厚みはそれ自体言葉には尽くし難いが、この映画の中ではとくべつ浮きあがる色のないことがむしろ映画の色となっているのではないか。戦時中の日常的な光景を描写するに、色のない色を表現する色の設計は、たんに彩色を配色するよりも画面に何気ない全体的なトーンをもたらし、即ち画面に厚みをもたらすことになる。またそんなとくべつ浮きあがる色のない中で、それでも印象に残像するのは、やはり幽霊となった兄妹を浮かびあがらせる赤色だろうが、赤色は美術的に闇の色とも言われる通り、光なき中での光の色でもある。光なき中での光はけっして物事を明るく照らしはしない。ぼんやり浮かびあがらせる感触を、それは実現する。

 

蛍の光で蚊帳の中につかの間の明かりを灯したその翌朝、あの無数の蛍はきっと死骸になっているに違いないと思えば、案の定幼い節子がその無数の蛍の死骸を埋葬しようとしている。そしてその幼い口から不意にもらされる母親の死の認識。清太の脳裏に瞬間焼き場に投げ入れられる母親の遺体のイメージが過り、たちまち清太のまなこには涙があふれだす。

無数の蛍の光は、無数の命の火で、それは戦火に焼かれて亡くなった無数の命の火なのだった。だから清太と節子も赤い火の色につつまれて、あるいは赤い火そのものとなってそこに灯り続ける。良し悪しではなく、生きていた、そして死んだという事実。それだけなのだと思えて仕方ない。しかしそれ故にこそ何ものにもかえがたく、掛け替えがない。最良の宮沢賢治のような戦争文学映画。