映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999/日本/104分)高畑勲

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家族の、家庭の映画であるが故に、それは父親のタカシの映画としてだいたいはまとめられる。何故なら一家が一家である以上は、誰かがその支え役としての大黒柱でなければならず、ここでは順当に父親のタカシがその役を担わされているからだ。父親がその役を担わされるのはもはや一般的な物語とは言いにくいのかも知れないが、少なくともこの家族、この家庭は(その時代のその社会にあっては)そうなのだ(そうだったのだ)。そういうものとして受け容れることは出来る。

全篇の基調となるごく淡白な画面は、出来のよい俳句の如く受け手のイマジネーションにイメージを委ねるべくの画調だったのだろうが、それが俄かにそこでだけ妙にリアリスティックな描線に変質する場面がある。近所に爆音轟かせたバイク乗りのチンピラ達が乗りつけてきて、一家の長たるタカシがそれを注意しに行く場面。タカシはそこで結局まともに注意することが出来ず、シゲの機転を利かせた説得でなんとかチンピラ達は退散する。シゲがチンピラ達を説得し始める場面で、画調はラフな本来の描線に戻るのだが、何故そこで殊更にタカシがリアルな脅威と直面する場面を設定し、尚且つそれをリアリスティックな描線で描写したのか。それはやはり、タカシが一家の長であり、その資質が試される大事な場面だから、ということになるのだろう。家族と家庭を描く映画に於いて、その家族と家庭を外的な脅威から守る役割は誰が果たすのか、という時に、結局矢面に立つべきとされるのは年長の男、一家の長というわけで、その脅威に父親が向き合う場面が一家の物語にとっては大事な場面になることは当然のことになる。ともあれ、その場面でその役割を十分に果たせなかったタカシは、マイホーム建立記念の安全ヘルメットを力なく膝から滑り落とす。滑り落とすそのヘルメットが、またそこだけリアリスティックに描かれる。

単純な描線に淡い白い背景は、漫画的なカリカチュアやパロディやディフォルメを自在に画面に展開するのにたしかに都合がいいのだろう。元来が四コマ漫画が原作のアニメーションで、日常の機微を数珠繋ぎの挿話で綴っていくスタイルを2時間の長丁場で貫徹するには全体の構成のリズムというものが必要で、その為には見続けるのにストレスがかからないだろうこの画調が最適だと思われたのかも知れない。だが、前述のリアリスティックな画調の場面はそのような文脈から幾分逸脱した場面のようにも映る。なんならそこでは、ラフな本来の描線で全体を描写しても問題はなかった筈の場面でもあるからだ。それを殊更リアリスティックな画調で描写したその所以は、タカシの父親としての立場を問い直すリアルな脅威を感得させるという演出意図にあるには違いないのだが、そこにはそれだけに留まらず、映画はそれでも「現実」に根差していなければならないという信念もあったように思われる。

じゃりン子チエ 劇場版』では基本的に漫画的な記号的表現が全篇で活用されていたが、ラストシーンの小鉄とジュニアの対決のシーンでは、猫同士の人間的なアクションによる対決がやけに劇画的にリアリスティックな重量のある作画で描写されていた。それはその描写が主題そのものの真実にも直結するものだったからだが、この映画の件の場面でも、それは暴力に接すれば現実に傷つく、つまり死ぬとか殺されるとかいう切実な生身の体をもった人間の場面として演出されていたように思われる。何故かその場面の事前に、暴走族がらみの事故死や殺害といった暗鬱なイメージが描写として置かれているのも関連していて、何故そこにだけそんな重みを置くのかと言えば、そんな重みと向き合うのでなくては、家族と家庭の物語も「現実」にはならないと、この映画の演出家が信じていたからではないか。だから、そこでももし観客が何かしら「嫌なもの」を感じるとすれば、それでこそなのだ。「嫌なもの」を感じることも、それと向き合うこともなく家族も家庭も守っていくことは出来ないということなのではないか。「現実」は必ずしも表現上の「リアリティ」ではないかも知れない。だが、この映画の演出家はたとえばバイクのライトを向けられて怯えるタカシの姿をラフな本来の描線で描写するよりはリアリスティックな描線で描写するほうが、より「嫌なもの」を「嫌なもの」として描くことが出来ると信じたのだろう。この、何故そこだけ、という違和感は、異物のように観客の中に遺る。遺ることが大事だったのかも知れない。

中堅サラリーマンと専業主婦を中心にしたこんな5人家族の家庭の物語自体、もはや存在しないわけではないとしても、一般的な物語とは言いにくいのかも知れない。それはそれでもいまだに意義をもちうるのかと言えば、飽くまで個々の挿話としてなら意義をもちうるのではないか。実際この映画自体、原作の四コマ漫画を基調にしたものだろう個々の挿話が俳句のように綴られるが、その多くは家族全体の挿話であるというよりは、夫と妻、父と子、母と子、祖母と近所など、個と個の関係の綾として綴られている。そのかぎりなら、それは場合によっていまだに人と人との関係の綾として通じるものがあるに違いなく、その描写と構成の巧みさに於いては、この映画はやはり見応えがある。時代的にもはや過去の風俗だったとしても、過去の風俗を描く為の映画ではないから、映画それ自体として愉しい。

このようなアニメーション映画で、むしろ作画の仕事の素晴らしさなどは論いにくいもので、それはそのものを見ることでしか通じないところがあるが、たとえばタカシが酔っ払って家に帰りまつ子がバナナとどら焼きを差し出す場面の面白さなど、何と言えばいいのか本当にわからない。わからないが、こういうものを描くことこそ映画なのじゃないか。それは本当になんでもないのだ。なんでもないのに、描写そのものの力で場面が支えられている。その酔っ払いぶりを描き出すのが作画の仕事なのだとしたら、そこに巧みな演出家がいてあげなくては勿体ない話だと思える。