映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『火口のふたり』(2019/日本/115分)荒井晴彦

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台詞を撮っている、と思える。台詞を話している演者ではなく、演者が話している台詞を撮っている、ように見えてくる。それは始め、所謂「行間を読ませる」というよりは行そのものをそのまま読ませているような印象として触知される。とにかく演者が演じるところの人物達が、台詞で自分達の来歴やら自分自身の過去や現在の内観やらのあれこれを、なんでも台詞に乗せて開けっ広げに陳述してしまうから。そんなものを見続けさせられていると、この映画には細部のクローズアップがまたほとんどないことにも気がつかされる。大体映画なんてものはカットとカットの組み合わせで一つのショットに豊かな意味や意義を含蓄させるのがその基本的な技法というもので、単に台詞を話してそれらしく役柄を演じている演者達を画面に収め続けたところで、それだけでそこに映画のエモーションが生じるわけでもないだろう、などと、判ったような反省さえそこに覚え始める。

 

しかし、思えばこの映画、エンドクレジットを見てあらためて気がつかされるのだが、具体的な顔と名前のある役柄を演じているのは、じつに主役の男女、ふたりきりなのだ。だからこそ直截にどうだというわけでもないが、映画を見て、物語に接している間、そこに人物がふたりきりであることになんらの逼塞をも覚えさせないのは、まさにふたりの演者が、台詞を話している演者ではなく、演者が話している台詞になりきっていたからなのではないか。演者のふたりは、台詞の為にそこにいる。大方の台詞は小説からひき継がれているのかも知れないし、あるいは映画だけの脚色もあるのかも知れないが、ともあれ台詞がまるでカギ括弧のついた文中の行そのもののように律儀に語られ続けることは、なまじ演者の実存に映画を仮託して、つまり映画を当たり前なドラマとして展開させるよりも、むしろ映画を映画にしているように見えてくる。

 

言葉はそれ自体が具体的なイメージでもあると思う。だから演者の肉声によって音響として構成される台詞による言葉も、それ自体が即自的に抽出されるときには、心理的な情動の媒介というよりはむしろ即物的なイメージそのものとなるのではないか。この映画のふたりの人物達が交わす会話の言葉は決して抽象的ではなく、むしろ下世話的とも思えるほど具体的な社会性や時代性に阿ったような語彙さえ聞き取られるが、それでもそれらの台詞は「ふたりだけの間」という特殊な空間性を帯びることで、台詞そのものとして奇妙に際立つかに思える。それは言わば、「行間」というよりはむしろ「行そのもの」としての台詞が交錯する、しがない男女による(ふたりだけの)「対話篇」なのではないか。

 

人物と人物が肌もあらわに体を重ね合うとき、映画は何ができるのかと言えば、多分何もできない。クローズアップで体と体のどこかとどこかのつかず離れずをカッティングして如何にモンタージュしようとも、結局それは断片でしかなく、アダルトビデオ的な性的嗜好フェティシズムに淫するのでなければ、男女の体のむつみ合いを映画のキャメラという第三者的視点からなんらかの意味や意義に統合的に表象することは、多分無理なことだろう。

この映画の男女は、いとこ同士の幼馴染ということになっている。この映画はその男女の裸のむつみ合いの意味や意義を描くのに、やはり台詞の交換による挿話の挿入という外部の表象によって接近を試みているように思われる。たとえば男女が互いの性器の異常を報告し合い観察し合うだとか、男が女に膣内に射精することの可否を尋ねるだとか、あるいは性交そのものから離れても、男が食事しながら突然秋田弁で喋り始めるなど、その他あれこれの軽口や冗談による台詞の交換から、ふたりの間柄が心情や記憶のズレを含みながら同時に照れ隠しのない明け透けな関係であり得ていることが明示される。それはふたりの裸のむつみ合いの意味や意義を、外部の表象として外郭から描き出す。

 

富士山の噴火という作劇的飛躍は小説からひき継がれたものかも知れない。しかしそれが映画の中で奇妙に映画全体のニュアンスに合致するのは、この映画が台詞の交換による「ふたりだけの間」の「対話篇」だったからではないか。一見自然なようでいてじつは余分な要素のない台詞の交換だけで形作られた物語と人物、つまり世界であらばこそ、そこに抽象的な作劇的飛躍が許容され得たのではないか。「ふたりだけの間」で胚胎された「火口」の小噺が「世界の終焉」的な大きな物語に直結する飛躍は、それがともに本来的に「イメージ」であることによって通底する。

 

「世界の終焉」的なイメージは、なぜかしら海岸のイメージに連結される。この映画でもしがない男女はいっとき、恐らくは秋田某所の風力発電の風車の並び立つ海岸から彼方を共に眺めやる。海岸とは無意識的に世界の涯てのイメージなのかも知れないが、それは同時に彼方の世界を希望的に眼ざすイメージをも暗に含蓄するように思われる。「ふたりだけの間」のしがない男女の睦言の小噺がノスタルジックな感傷の中に逼塞することなく、一躍「世界の終焉」的なイメージに敷衍されるその断続には時代的な気分を読み込むこともできるのだろうが、それはしかし映画の問題ではないとも思う。

ともあれ、そんなしがない男女の小噺に付き合う気にさせられただけでも、この映画の映画たる価値はある。

 

とくに優れて秀でたところのあるわけでもない男が、じつは料理が上手で、人に喜んで食べてもらえるのが好き、という設定だけで、なぜかいい男に思える不思議。それは「私」にとっては私を悦ばす蛇のような男。如何にも文学的な細部。