映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

『ドッグマン』(2018/イタリア、フランス/103分)マッテオ・ガローネ

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暴力には暴力を、と宣うような判然たるアメリカ映画的な活劇の構図でもなく、しかしかと言って暴力と非暴力の狭間に煩悶する人間ドラマ的な心理劇の構図でもなく、ともあれ主役となるマルチェロは、その「肖像」を映画の画面に露呈し続ける。

 

映画を見ていて、演者が演じる人物のその相貌のクローズアップを目撃するとき、ふと「肖像」という形容が思い浮かぶことがある。それは心理的な内容を含蓄した何某かの「表情」でも、あるいはその一つのバリエーションとしての「無表情」でもなく、たんにその人物が今そこにいること、その被写体としての実存がそこに露呈するような瞬間の局面として、人物のその相貌が意識されるということだ。

『ドッグマン』の物語の主役となるマルチェロという男は、シモーヌという男の暴力にさいなまれ続けることになるが、マルチェロがさいなまれ続ける様子を見続ける物語の受け手が覚えるような典型的なものだろう心理的な衝動を、マルチェロはついぞ表出することがない。男の暴力を人並に疎ましく思い、恐れてもいるらしいが、しかしそれに判然たる反抗を演じるわけでもなく、また反抗し得ない自分に鬱勃とした葛藤を演じるでもなく、むしろときには男の友達らしくその悪行に便乗しさえする。あるいは男が危機に瀕する時にも、なぜか自分を犠牲にしてまでも男を護りさえする。

そんなマルチェロという男の相貌を、映画の画面は飽くまで「肖像」として映し出し続ける。それはあれこれの心理的解釈を許容する多義性を含蓄した表情であるというよりは、人物自体が自身の心理的様態を自覚しておらず、それを自覚していないということ自体をも自覚していないというような、言わば遠心的な相貌としてそこに露呈されているのではないか。遠心的な相貌は、だから物語的な全体の脈絡の中にあって、不可解な相貌それ自体、即ち「肖像」として、映画の中の「謎」になる。

 

物語の中のマルチェロという男が、何を感じ、何を思い、何を考えていたのか、それが規定された心理的脈絡の中に見出せないこと。映画の中の「謎」として、その不可解さが担保されることで、物語の虚構性がそのまま現実性へと還元される。男がなぜそのように行動したのか、誰にも判らない。判らないが、その人物の実存は確かに物語の中に生きていて、出来事は生起した。

それは全体と細部が相関的に収束するアメリカ映画的な活劇の構図に定着されることもなく、また同時に題目同士の相反に主題的な止揚を見るような人間ドラマ的な心理劇の構図に定着されることもなく、人物と事物があるようにある中でなるようになる、その過程としての現実性が、「肖像」の不可解さの中に担保されることになる。そしてまた「肖像」の不可解さの即物性は、映画が映画足り得る所以ともなる。

 

マルチェロが娘とふたりでダイビング旅行に出向く。海の中は決して安穏とした世界ではなく、むしろどこか暗鬱とした気配をにじませる。しかし劇中二度繰り返されるそのダイビング旅行の場面で最も印象的なのは、やはりマルチェロと娘との物言わぬ穏やかな佇まい、その二人が寄り添い合う束の間の「肖像」を捉えたショットなのではあるまいか。そこではカットが二人の表情に割りふられるなどということはない。飽くまでも一つのショットとしてそれを提示するということが、そのショットを相関するふたりの「肖像」として提示することになる。

 

海岸線に近い半分廃墟のような団地の荒涼とした景観は、ロングショットに相応の景観として画面の中に映える。画面が、被写体と距離を置くべき瞬間にきちんと距離を置くことをわきまえていることが、この映画を「肖像」の映画、即ち被写体を被写体として捉える映画足らしめる一因ともなる。雨音が、風音が、物が物を打つ音が、ときにさりげなく、映画を被写体の即物性の映画として構成する。それらは物語的な演出的段取りに回収されない。回収されないことでむしろ世界の不透明な不穏さそのものを表出する。

 

マルチェロは、なぜ判然たる反抗を企図せず、あんな迂遠なかたちで復讐を遂げたのか。それは彼が無意識に自らに男の証を求めたからではないか、とは思える。シモーヌの危機に便乗して彼奴を倒すのではなく、飽くまでシモーヌと対等な男である自らを、自らに証したかったのではないか。そのあたりの機微が、しかしその内実はけっして誰にも判らない仕方で、行動に行動が連鎖するかたちで描かれることが、この映画の映画足り得る所以とはなっているように思われる。