映画(ほか)覚書

映画ほか見たものについての覚書

メモ:『風立ちぬ』『ペギー・スーの結婚』「八つ墓村」『レイジング・ブル』「風雲児たち~蘭学革命篇~」『触手』『武士の家計簿』

風立ちぬ』(2013/日本/宮崎駿

可塑性。

生きとし生けるものの一部としての機械の機体、起きて見る夢と寝て見る夢、溶け合い繋がり合う線と線、イメージとイメージ、意味と意味との只中で、ただ生きる、生きているという、その単純なリアルの「美しさ」。

それがこれ、これがそれになる、なりかわる可塑性の「美しさ」。

 

ペギー・スーの結婚』(1986/アメリカ/フランシス・フォード・コッポラ

演出の為だけに装置化された擬似鏡は映画が映画であることの逆接的な証となる。

リアリティの為のリアリティではなく映画のリアリズムにこそ傅くこと。

18歳から43歳の人物を敢えて同一の役者が演じること。

何かが起こる、その直感を画面に充すこと。

それこそ映画のリアリズム。

 

八つ墓村」(2019)

ヴァンプ真木よう子の立ち様と崩れ様には惚れる。

「君を愛していた!」からの物語の畳み掛けには泣く。

男子から見た女子三類型のキャラ立ちぶり。

終わってみれば『カリオストロの城』見終えたみたいな「見届けた」感。

吉岡秀隆のジミな変人ぶりも。

でもやはり真木よう子

 

レイジング・ブル』(1980/アメリカ/マーティン・スコセッシ

モノクロームが、「映像」を廻るイメージ的なオブラートとしてではなく、被写体となる事物の即物性を露わにする施工として機能する。

つまりサイレント映画モノクローム

逆に希少なカラーパートは、むしろ「映像」を廻るイメージ的なオブラートの趣向そのものとして機能する。

サイレント映画的な事物の即物性が画面の中で担保されることで、映像演出のケレンが自然なリズムとして画面連鎖の中に定着する。

そんなスタイルがあってこそ、全てのシーンの時間が、過去でも現在でもない、あるいは過去でも現在でもあるような生の時間、即ち「映画」の時間として止揚される。

始まりも終わりもない一代記。

 

風雲児たち蘭学革命篇~」(2018)

演者が役になるというより役が演者になる。

その演者のその顔こそが、正にその役その人のふたつとない顔そのものであるかのように見えてくる。

それはその人がその人であるという真実に妥協なく、飽くまでも関係ありきの個我ではなく個我ありきの関係として群像劇を描き出す描写の功。

そして良沢や玄白の仕事の大きな意義が暗黙の内に自ずから視聴者に伝わる構成の妙。

総じて、「仕事」を成し遂げること、その具体的な情熱へのリスペクトあっての脚本。

人物と人物は、日本家屋独特の枠の中に枠を組む奥行ある縦構図の中で相対する。

顔と顔とのリバースから縦構図のロングへ。即ち演出。

 

『触手』(2016/スイス、デンマーク、ドイツ、ノルウェー、フランス、メキシコ/アマト・エスカランテ)

快楽堕ちエロ漫画的な妄想をニュアンス主体で映像化。

画面の中に映し出すべき被写体を判然と据えないことで不安感を演出するやり口は安易に見える。

作劇の構図の中で子供達の存在感がバランスとして何気に大事に見えるが、総じて「物語る」という意思に乏しい為に、それも又何がどうなることもない。

 

武士の家計簿』(2010/日本/森田芳光

ポイントになる事柄には前フリを欠かさない律儀な脚本。

それは2時間足らずな映画の時間の中で人物達の人生の時間を見る者に共有させる為の基本の手管。

地味なれど演出意図のあるキャメラワーク。

大村益次郎の繰り返す「君(きみ)」という呼び方は、その一語だけで新時代の符牒の響きを放つ。

『火口のふたり』(2019/日本/115分)荒井晴彦

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台詞を撮っている、と思える。台詞を話している演者ではなく、演者が話している台詞を撮っている、ように見えてくる。それは始め、所謂「行間を読ませる」というよりは行そのものをそのまま読ませているような印象として触知される。とにかく演者が演じるところの人物達が、台詞で自分達の来歴やら自分自身の過去や現在の内観やらのあれこれを、なんでも台詞に乗せて開けっ広げに陳述してしまうから。そんなものを見続けさせられていると、この映画には細部のクローズアップがまたほとんどないことにも気がつかされる。大体映画なんてものはカットとカットの組み合わせで一つのショットに豊かな意味や意義を含蓄させるのがその基本的な技法というもので、単に台詞を話してそれらしく役柄を演じている演者達を画面に収め続けたところで、それだけでそこに映画のエモーションが生じるわけでもないだろう、などと、判ったような反省さえそこに覚え始める。

 

しかし、思えばこの映画、エンドクレジットを見てあらためて気がつかされるのだが、具体的な顔と名前のある役柄を演じているのは、じつに主役の男女、ふたりきりなのだ。だからこそ直截にどうだというわけでもないが、映画を見て、物語に接している間、そこに人物がふたりきりであることになんらの逼塞をも覚えさせないのは、まさにふたりの演者が、台詞を話している演者ではなく、演者が話している台詞になりきっていたからなのではないか。演者のふたりは、台詞の為にそこにいる。大方の台詞は小説からひき継がれているのかも知れないし、あるいは映画だけの脚色もあるのかも知れないが、ともあれ台詞がまるでカギ括弧のついた文中の行そのもののように律儀に語られ続けることは、なまじ演者の実存に映画を仮託して、つまり映画を当たり前なドラマとして展開させるよりも、むしろ映画を映画にしているように見えてくる。

 

言葉はそれ自体が具体的なイメージでもあると思う。だから演者の肉声によって音響として構成される台詞による言葉も、それ自体が即自的に抽出されるときには、心理的な情動の媒介というよりはむしろ即物的なイメージそのものとなるのではないか。この映画のふたりの人物達が交わす会話の言葉は決して抽象的ではなく、むしろ下世話的とも思えるほど具体的な社会性や時代性に阿ったような語彙さえ聞き取られるが、それでもそれらの台詞は「ふたりだけの間」という特殊な空間性を帯びることで、台詞そのものとして奇妙に際立つかに思える。それは言わば、「行間」というよりはむしろ「行そのもの」としての台詞が交錯する、しがない男女による(ふたりだけの)「対話篇」なのではないか。

 

人物と人物が肌もあらわに体を重ね合うとき、映画は何ができるのかと言えば、多分何もできない。クローズアップで体と体のどこかとどこかのつかず離れずをカッティングして如何にモンタージュしようとも、結局それは断片でしかなく、アダルトビデオ的な性的嗜好フェティシズムに淫するのでなければ、男女の体のむつみ合いを映画のキャメラという第三者的視点からなんらかの意味や意義に統合的に表象することは、多分無理なことだろう。

この映画の男女は、いとこ同士の幼馴染ということになっている。この映画はその男女の裸のむつみ合いの意味や意義を描くのに、やはり台詞の交換による挿話の挿入という外部の表象によって接近を試みているように思われる。たとえば男女が互いの性器の異常を報告し合い観察し合うだとか、男が女に膣内に射精することの可否を尋ねるだとか、あるいは性交そのものから離れても、男が食事しながら突然秋田弁で喋り始めるなど、その他あれこれの軽口や冗談による台詞の交換から、ふたりの間柄が心情や記憶のズレを含みながら同時に照れ隠しのない明け透けな関係であり得ていることが明示される。それはふたりの裸のむつみ合いの意味や意義を、外部の表象として外郭から描き出す。

 

富士山の噴火という作劇的飛躍は小説からひき継がれたものかも知れない。しかしそれが映画の中で奇妙に映画全体のニュアンスに合致するのは、この映画が台詞の交換による「ふたりだけの間」の「対話篇」だったからではないか。一見自然なようでいてじつは余分な要素のない台詞の交換だけで形作られた物語と人物、つまり世界であらばこそ、そこに抽象的な作劇的飛躍が許容され得たのではないか。「ふたりだけの間」で胚胎された「火口」の小噺が「世界の終焉」的な大きな物語に直結する飛躍は、それがともに本来的に「イメージ」であることによって通底する。

 

「世界の終焉」的なイメージは、なぜかしら海岸のイメージに連結される。この映画でもしがない男女はいっとき、恐らくは秋田某所の風力発電の風車の並び立つ海岸から彼方を共に眺めやる。海岸とは無意識的に世界の涯てのイメージなのかも知れないが、それは同時に彼方の世界を希望的に眼ざすイメージをも暗に含蓄するように思われる。「ふたりだけの間」のしがない男女の睦言の小噺がノスタルジックな感傷の中に逼塞することなく、一躍「世界の終焉」的なイメージに敷衍されるその断続には時代的な気分を読み込むこともできるのだろうが、それはしかし映画の問題ではないとも思う。

ともあれ、そんなしがない男女の小噺に付き合う気にさせられただけでも、この映画の映画たる価値はある。

 

とくに優れて秀でたところのあるわけでもない男が、じつは料理が上手で、人に喜んで食べてもらえるのが好き、という設定だけで、なぜかいい男に思える不思議。それは「私」にとっては私を悦ばす蛇のような男。如何にも文学的な細部。

『ドッグマン』(2018/イタリア、フランス/103分)マッテオ・ガローネ

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暴力には暴力を、と宣うような判然たるアメリカ映画的な活劇の構図でもなく、しかしかと言って暴力と非暴力の狭間に煩悶する人間ドラマ的な心理劇の構図でもなく、ともあれ主役となるマルチェロは、その「肖像」を映画の画面に露呈し続ける。

 

映画を見ていて、演者が演じる人物のその相貌のクローズアップを目撃するとき、ふと「肖像」という形容が思い浮かぶことがある。それは心理的な内容を含蓄した何某かの「表情」でも、あるいはその一つのバリエーションとしての「無表情」でもなく、たんにその人物が今そこにいること、その被写体としての実存がそこに露呈するような瞬間の局面として、人物のその相貌が意識されるということだ。

『ドッグマン』の物語の主役となるマルチェロという男は、シモーヌという男の暴力にさいなまれ続けることになるが、マルチェロがさいなまれ続ける様子を見続ける物語の受け手が覚えるような典型的なものだろう心理的な衝動を、マルチェロはついぞ表出することがない。男の暴力を人並に疎ましく思い、恐れてもいるらしいが、しかしそれに判然たる反抗を演じるわけでもなく、また反抗し得ない自分に鬱勃とした葛藤を演じるでもなく、むしろときには男の友達らしくその悪行に便乗しさえする。あるいは男が危機に瀕する時にも、なぜか自分を犠牲にしてまでも男を護りさえする。

そんなマルチェロという男の相貌を、映画の画面は飽くまで「肖像」として映し出し続ける。それはあれこれの心理的解釈を許容する多義性を含蓄した表情であるというよりは、人物自体が自身の心理的様態を自覚しておらず、それを自覚していないということ自体をも自覚していないというような、言わば遠心的な相貌としてそこに露呈されているのではないか。遠心的な相貌は、だから物語的な全体の脈絡の中にあって、不可解な相貌それ自体、即ち「肖像」として、映画の中の「謎」になる。

 

物語の中のマルチェロという男が、何を感じ、何を思い、何を考えていたのか、それが規定された心理的脈絡の中に見出せないこと。映画の中の「謎」として、その不可解さが担保されることで、物語の虚構性がそのまま現実性へと還元される。男がなぜそのように行動したのか、誰にも判らない。判らないが、その人物の実存は確かに物語の中に生きていて、出来事は生起した。

それは全体と細部が相関的に収束するアメリカ映画的な活劇の構図に定着されることもなく、また同時に題目同士の相反に主題的な止揚を見るような人間ドラマ的な心理劇の構図に定着されることもなく、人物と事物があるようにある中でなるようになる、その過程としての現実性が、「肖像」の不可解さの中に担保されることになる。そしてまた「肖像」の不可解さの即物性は、映画が映画足り得る所以ともなる。

 

マルチェロが娘とふたりでダイビング旅行に出向く。海の中は決して安穏とした世界ではなく、むしろどこか暗鬱とした気配をにじませる。しかし劇中二度繰り返されるそのダイビング旅行の場面で最も印象的なのは、やはりマルチェロと娘との物言わぬ穏やかな佇まい、その二人が寄り添い合う束の間の「肖像」を捉えたショットなのではあるまいか。そこではカットが二人の表情に割りふられるなどということはない。飽くまでも一つのショットとしてそれを提示するということが、そのショットを相関するふたりの「肖像」として提示することになる。

 

海岸線に近い半分廃墟のような団地の荒涼とした景観は、ロングショットに相応の景観として画面の中に映える。画面が、被写体と距離を置くべき瞬間にきちんと距離を置くことをわきまえていることが、この映画を「肖像」の映画、即ち被写体を被写体として捉える映画足らしめる一因ともなる。雨音が、風音が、物が物を打つ音が、ときにさりげなく、映画を被写体の即物性の映画として構成する。それらは物語的な演出的段取りに回収されない。回収されないことでむしろ世界の不透明な不穏さそのものを表出する。

 

マルチェロは、なぜ判然たる反抗を企図せず、あんな迂遠なかたちで復讐を遂げたのか。それは彼が無意識に自らに男の証を求めたからではないか、とは思える。シモーヌの危機に便乗して彼奴を倒すのではなく、飽くまでシモーヌと対等な男である自らを、自らに証したかったのではないか。そのあたりの機微が、しかしその内実はけっして誰にも判らない仕方で、行動に行動が連鎖するかたちで描かれることが、この映画の映画足り得る所以とはなっているように思われる。

『さよならくちびる』(2019/日本/116分)塩田明彦

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女性二人の今まさに唄を歌うくちびるがつむがれる言葉に合わせて蠢く、その様子が、演技でありながら演技でなく、また演出でありながら演出でなく、くちびるが蠢くその様子そのものとして画面の中に映える。生きている、と言うことなのだと思う。

 

ロードムービーとは移動する車窓の映画、と宣ったのは誰だったか忘れたが、その意味で、この映画は確かにロードムービーだと言える。そして移動する車窓の画面はじつはそこに映りこむ人物の画面でもあり、そこに映りこむ人物がいなければ、むしろ移動する車窓の画面も映画としては成立しない。映画が映画であるかぎりそこには物語があり、ロードムービーが移動する車窓の映画であるならば、その映画の物語は無論移動することをもっぱらとする旅程の物語になるだろう。

物語とは、映画にとってそれ自体が映画を具体化するための装置であって、言わば映画を詰めこむための空の器でもある。この映画ならば、解散を決意した女性デュオとその男性ローディーの巡業記という体裁がそれにあたるが、そこでその巡業記を映画の物語足らしめているのは、あの黒いRVの存在そのものだ。あの黒いRVは一人の運転者と二人の同乗者の位置を入れ替え立ち換えしながら、その時毎の三人の関係の状況を反映する具体的な装置となり、また物語内の時間の進行や空間の移動をごく単純な人物から人物への切り返しの中で表現する装置ともなる。

 

巡業記の表面には、とくにドラマらしいドラマは起こらない。物語の主題とされるのがじつは三人の間の心理的な距離感である以上、要はそれを生み出すことになった三人のそれまでの関係、即ち過去が問題とされるほかなく、したがってこの映画は回想やそれに伴う述懐を多用することにはなる。だが、そこで展開される過去と現在の関係は、現在へ説話的に接続する客観的な時制として過去が描かれるのではなく、むしろ現在の人物の実存する意識の中に主観的に生息し続ける挿話として過去が描かれる。それが直観的に触知できるのは場面毎の風音のオーバーラップで、それがこの映画の中では、過去から現在にかけて時制を越えてオーバーラップする。

 

脚本としての予めのイメージを越えて、演出として画面そのものを息衝かせる風と光。

風と言う、本来目に見えない筈のものが映画の画面の中で主要なモチーフとなりうるのは、その運動によって表層を揺らめかせるあれこれのものの表情をこそ、映画の画面が捉えるからにほかならない。この映画では、それはもっぱら緑の木々の梢として映し出される。風を風足らしめるためにこの映画が選んだ触媒は緑の木々の梢なのだ。そして緑の木々の梢は、昼間の明るい光をその総身に帯びてこそ、画面の中でその緑の美しさを溌溂と発散する。だから、この映画では風は飽くまで昼間の明るい光の中のモチーフでこそあれ、宵闇の中に風が吹くことは決してない。

昼間の明るい光は、緑の木々の梢のみならず、あちこちでこの映画の世界そのものを祝福するかのようにその細部を輝かせている。街の寂れた路地裏も、山中の湖の水面も、ひとしくありふれた昼間の明るい光によって祝福されるかのように輝く。そしてこの映画の中の光は、宵闇の中にあってもやはり輝く。各地のライブ会場でハルレオの二人を照らし出す光はつねに橙いろの暖かい光で、ラストライブを終えた後の函館の街路の街灯もまた、同様な橙いろの暖かい光で三人の乗る車の行方を照らし出す。

これだけの風と光につつまれた三人の旅路は、それ故けっして三人がうつむいて終わることはないだろう。風と光は、審美的な漠然としたイメージとしてではなく、その場面毎に現実に息衝く現象として画面の中に投影される。だからこそそれは、三人の旅路がまがうことなき現在の旅路であることを自ずから証する。

 

ハルとレオの二人が車を降りると、先を争うように前へ前へと歩く。そんなふうに、この映画の人物達は画面の中で、あるいはその内と外とで、動いて回り、出入する。最初のライブでレオの到着を待ちわびるハルとシマのツーショットの向こうに、不意にレオの姿が過ぎる。瞬間的に過ぎるレオの姿を見とめて、カットが変わりハルが急いでその後を追う。なんとも言い難いが、たとえばそんな瞬間の微妙な間(ま)の連鎖そのものが、運動そのものとしてこの映画の画面をその都度息衝かせているように感ぜられる。車の中にあっても、たとえば山中の湖畔でシマが運転席に戻ってきて、しばらく息を整えた後、徐に助手席に目をやると丁度ハルがそこに入り込んでくる。入り込んでくるそのことへの意外さの印象は、画面が当たり前のように助手席から運転席のシマを捉えているカットの定石が効いていればこそ、判然と際立つことになる。

 

「レオ」と言う相棒と同じ名をもつ少女がハルの前に束の間あらわれる。場所と年月日まで刻印される現在の場面にくらべて一体いつの話なのかも曖昧な過去の場面と同様、少女のそのようなあらわれかたもまた、この映画の物語が判然たる過去と現在の時制にしばられた物語ではないことを示す。同じ名をもつ少女は、言わば暗喩として「レオ」の幼少時代そのもので、だから同じ気配をもつその女親はシマに粘着的な視線を向けることにもなる。

こんな仕様で人物を描き出すこの映画では、過去の挿話は現在に通時的に従属するものではなく、むしろ人物達の意識の中に共時的に潜在する心理的なモチーフとしてある。だからこそ人物達はあっけらかんとして互いに互いの心情を告白する。言葉は飽くまで言葉でしかなく、暗黙裡に共有された記憶としての経験そのものとは自ずから代替しえないものであること。それを三人は無意識に分かり合っているからこそ、言葉はむしろあからさまにあっけなくこぼれ落ちる。

 

そこに演じられるのは、だから三人の共犯関係なのだと言ってもよい。幾度となく重ね合わされた経験が、言葉よりも三人を三人としてむしろ結びつける。自分がプレゼントしたバンドがハルの腕に巻かれてあることを見とめたレオは、然しどんな言葉をかけることもない。何故ならそれは今更言葉で指摘されるべき事柄ではないからだ。今更言葉で指摘されるべき事柄ではない真実の秘匿が、むしろ互いに互いを暗に結びつけていること。それを秘匿を共有する共犯関係なのだと論うとすれば、言わば再犯に再犯を重ね合ってきた三人が、最後にやはりまた再犯を重ね合うことは、自明のことでさえある。

「さよなら」と嘯きながら、それが決定的な決別に至らないのは、それを歌い続けることが三人の日常の営みだからで、その意味で日常が日常であり続けているかぎり、三人は三人の儘でいることが出来る。

 

演技でありながら演技でなく、また演出でありながら演出でなく、人物達とその関係が、実在として画面の中に刻印される。そんな映画足りえている。そう見える。

『ペパーミント・キャンディー』(1999/韓国、日本/130分)イ・チャンドン

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それは青年が見た末期の夢。

 

1979年から1999年までの20年間の、ある韓国人の一男性の半生を遡る物語。時間を「遡る」、その逆行のイメージを、この映画は一見あまりにも素朴な、前進する列車の最終車両から撮影された、過ぎ去っていく後景の線路の映像の、その巻き戻しによって表現する。その映像の中では、線路は後ろへ後ろへと進みゆかれるばかりでなく、桜の花びらは枝にまい戻り、車や人や犬も逆さ向きにこそ動く。巻き戻しの映像なのだから、そんなことは当たり前のことだろうか。しかし、巻き戻しの映像とは言え、それが現実に再生され、つまり映像が体験される時間自体は、じつは不可避的に前に向かって進んでいる。つまりそこでは時間が、後退しながら前進している。

リュミエール兄弟の監督した作品に『壁の破壊』という短編がある。一言で言って破壊される壁の巻き戻し映像なのだが、それは実際の成立の経緯ははっきり判らないとは言え、その映像の中で人夫達によって破壊された筈の壁が粉塵の白煙の中からにわかに再生された姿をあらわすそのなりゆきに、当時の素朴な観客達は驚異の目を向けたものらしく、それは映画の歴史上で初のトリック映画として記憶されるものでもあるらしい。リュミエール兄弟の映画創成期にまつわる挿話としてもっとも人口に膾炙しているのは、やはり『列車の到着』に当時の素朴な観客達が驚異の目を向けたという逸話だが、『ペパーミント・キャンディー』の時間を遡行する列車からの映像には、そんな映像の原初的な夢幻性が潜在してはいないか。

原初的な夢幻性とはだいぶ曖昧な表現にはなるが、それは後退しながら前進しているという一見矛盾したベクトルの運動が、まがいなく一つの表象に収められてそこに蠢いていることに由来する。『列車の到着』の映像は、恐らく決して実物と取り違えられたわけではない。然し、映像は映像としてそれ自体が実物で、表象はそれ自体で成立するのだ。枝にまい戻る桜の花びらは、巻き戻しの映像ではなく、それ自体で不可思議な実物なのだと言うこと。だからこそ映画は物語を語り、観客はそれを信じ得ると言うこと。

 

ペパーミント・キャンディー』の各挿話は、ある一男性が辿る人生遍歴の中の幾つかの場面が、時系列的には遡行する形で物語られていく。これは然し、映画の物語話法で一般的な、回想場面挿入の大掛りな導入に過ぎないとは、恐らく言えないだろう。何故なら、回想場面を回想場面として作劇の構造に於いて支えるのはそれ以外の場面の現在時制としての担保あってこそだから。映画の場面としての現在時制はじつのところ作劇内部に於けるディテールの相関によってしか決定されないが、この映画の各挿話の作劇的なディテールの全ては、飽くまでも時系列的な現在から過去へと物語が“進む”ほどに事後的に補完されていくものでしかない。あの涙の所以、あの名前の所以、あの仕草の所以、あの言葉の所以。全てがまず現在にさしだされ、それからまたその全てが過去にさしもどされる。それのありようは、一般的な映画の物語話法の中で、回想場面が映画の中の現在時制に従属的な説明的補足として挿入されるありようとは、まるで異なっている。

あの涙、あの名前、あの仕草、あの言葉。それらは映画の作劇的なディテールとして、現在から過去へと遡行する物語の中に布置されるが、それらは布置されるのみで、この映画はそれを因果的な説明の中へと構成することはない。なんとなれば、劇中の当事者達はまがうことなくその場面その場面で現在を生きていて、それが自分の未来にどんな意味をもってくるのかを予期すらしないからだ。予期すらされないその未来は、だからやはり物語に於ける普通の意味での現在ではない。映画の中の現在は飽くまでその場面その場面であって、だから1999年として措定された年代は、じつは1979年として措定された年代と本来的になんの位相的な差異をもたない。

 

この物語の現在が過去と未来の狭間にサスペンドにされる時制の構成は、だからあの「後退しながら前進している」巻き戻し映像と相応している。一見矛盾した運動のベクトルをはらみながら、それを一つの表象に収めることで、そこに映し出される現在は、過去でも未来でもない、この現在としての“リアル”を得ることが出来る。それは過去や未来に組み込まれる説話的な“リアリティ”ではなく、掛け替えのない現在として人生の断面としてのその場面その場面を輝かせることにもなるだろう。

だからこそ、これは「青年が見た末期の夢」なのだ。1979年の青年が、一瞬間に垣間見た自分自身の人生の夢。それはじつは青年の脳裏にすら過らない、映画を現に見ている者だけが認識するだろう青年についての「夢」でしかないのだが、映画とはつまりそういうものでしかないことを、その語り手は自覚するのだろう。青年のまなこに滲む涙は、だから物語の中の何某かの感傷の表現なのではない。映画が物語を語るという事実がもとからはらんでいる感傷の機構の具象化なのだ。

 

1979年から1999年までの一男性の20年の人生遍歴を辿り綴る映画が、それから20年を経た2019年にふたたび映し出される。たとえばこんな単なる偶然の数字の布置が、もし単なる偶然に見えないとすれば、それはそれで映画が物語を語るという、感傷の機構の罠に落ちていることを意味する。あの涙、あの名前、あの仕草、あの言葉に、なぜ掛け替えのない意味があるように感ぜられるのか、そんな謎の生まれる所以も恐らくそこにある。

『勝手にしやがれ』(1959/フランス/90分)ジャン=リュック・ゴダール

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映画を見た者に「映画を見た」と信じさせるのに、もっとも端的で有効な方法は何かと言えば、「物語をわからせる」ことではないか。「物語をわからせる」とは、そこで示されていることを言葉に翻訳して自分で語ることが出来るようにする、と言うことで、だから映画を見た者に「映画を見た」と信じさせようとする映画は、その映像と音響の複合を、言葉に翻訳しやすい脈絡で組織しようとする。

 

しかし、言葉が映像の具体像の何であるかを捉えうるとは、それ自体がひどく曖昧な幻想ではあるまいか。この映画の中に映し出されている筈のもので言うのなら、たとえば「パトリシア」と、その物語上のヒロインの名前を言葉にすることで、一体何が捉えられていることになるのか。「パトリシア」と言えば、ジーン・セバーグという女優が演じているとされるあの短髪ブロンドの若い女の肖像を思い浮かべるかも知れない。だが、たとえば90分ある映画本篇の中で、その若い女はまさしく取り留めもなくあんな顔やこんな顔を見せ続けるわけで、そのあんな顔やこんな顔の中で、一体全体そのどれが「パトリシア」という指称に真に価するのか、誰にわかるというのか。

もしかすれば、演じるところのジーン・セバーグ自身すら演ずるべき人物としての把握が覚束なかったかも知れないその「パトリシア」は、だが紛れもなく映画の画面の中にだけは生きている。画面の中であんな顔やこんな顔を見せ続ける若い女の肖像そのものとして、彼女はそこにいる。そして画面の中の彼女は、決して静的な一個の肖像に落着することがなく、動的な取り留めのない脈絡の中で、あんな顔やこんな顔を演じ続けることになる。あるいはその総体が「パトリシア」なのだと言ってみたところで、そんな総体としての「パトリシア」は、飽くまで90分という時間の中で具体的に残像し続けるものについての漠然とした抽象的なイメージでしかない。

 

映画には時間的持続があり、時間的持続のあるかぎり、何某かの次元での「物語」がある。しかし「物語」は、たとえば「xがある」だけでは生まれることはない。そこには「x」と関係する「y」が措定されねばならないし、物語とはその関係如何の記述の変数として表象される一定、一連の持続的脈絡のことであるだろう。

たとえば「男の子」と「女の子」。問題は此の「と」であって、そこに示される断絶と接続の関係がなければ、映画は物語足り得ず、物語足り得ずばそれは映画足り得ない。たとえばキャメラの前に鏡がある。しかし鏡があるだけでは映画は生まれない。そこに人という被写体が映りこんではじめてキャメラは、鏡と人、人と鏡という関係を画面に映し出すことになり、映画が生まることになる。映画が生まれるとはつまり物語が動き出すということで、この映画ならそこに「男の子」と「女の子」の断絶と接続が描き出されることになる。

 

映画は、けれども物語とは無縁のところで、具体的な事物を表象する媒体でもある。この映画なら、たとえばパリの昼夜の街並の中に拡散し、また集約される、陽光や灯光の白さ、あるいは青年が幾度となくくすぶらせくゆらせる煙の有耶無耶な象(かたち)。それは物語と呼びうるものにほとんどなんらの寄与もなさないが、それでも映画の欠くべからざる細部としてモノクロームによる画面を構成する。それは物語と呼びうるものに寄与をなさないその故にこそ、むしろ世界の無為の豊かさそのものをそこに刻印する。世界はこのような細部でできている、できているそのことは無償の贈与であって、物語のような有為に帰せられないからこそ、世界の豊かさそのものの謂いともなる。

 

映画は世界を表象する。それは視線を媒介とする。映画のキャメラは世界への無為の視線であって、そこからこそ世界は映画の中で開示されうるものとなる。だが視線が視線である為にはそこに視線を受くるものとしての被写体がなければならない。世界が映画の中に開示されるのは、つまり被写体とキャメラとの関係を通したときだ。

たとえば、そこに「男の子」と「女の子」がいるのなら、そしてそこに「愛」が語られなければならないのなら、映画はその二人の視線と視線の関係をこそ、そのキャメラの視線の中に捉えようとするだろう。二人は見つめ合うが、「見つめ合う」視線そのものを映画は表象することが出来ない。男は女を見て、女は男を見る。映画は、女を見る男と男を見る女を各自の被写体として映し出すことが出来るだけだ。

劃して男女の視線と視線は交錯する、しかしそれは映画のキャメラの視線を媒介することでしか映画の中に表象されえない。視線と視線は、だから映画の中では完全に同一化されることはなく、同一化されない視線と視線は互いに互いを捉えようとして捉えそこなう断絶と接続を演じ続けることを余儀なくされる。

 

主役の男女が、幾度も映画のキャメラと直接に交錯させる視線は、この映画の存在そのものを視線そのものとして画面を見つめる意識の中に顕在化させる。男女を見つめるキャメラは見つめかえされる存在として、その偽装された超越的特権性を剥奪され、物語の存在論的次元は、言わば「いつかどこか」ならぬ「今ここ」のまぎれもない顕現性の中に担保されることになる。つまり、物語が地に足をつけることになる。モノクロームの黒白せめぎ合うパリの街並を映し出すキャメラは、自らの中に物語を収めるのではなく、言わば物語の中に自らを収める。

 

なんとも曰く言い難い映画。だが、キャメラの前に在るものを在るが儘に映し出し乍ら同時にそこに映画=物語をもたらすことのリアルは、言わばキャメラによって世界を表象する媒体としての映画の存在論的なリアルであって、存在論的なリアルであると言うことは、それはつまり掛け替えのない生(実存)のリアルでもある。

全ての映画がそうなのかと言えば、無論そうなのだが、なまじ尤もらしさ=リアリティを偽装しがちな映画一般にあって、そのリアルは、無償に輝くものと自分には思われる。だがそれこそが、曰く言い難い。

パトリシアが可愛いとか、パリの街並が美しいとか、ジャンプカットがどうであるとかロングテイクがどうであるとか、あの映画やこの映画からの引用がうんぬんだとか、語りのとば口としての断面はあれこれあるに違いないが、そういうものであり乍ら同時にそういうことでないような、現にそこに画面が躍っていることのリアルな奇跡性みたいなこと自体は、本当に曰く言い難い。

 

一本の映画は、そのほかのあれこれの映画なくしては存在しえないが、同時にその映画はその映画だけで掛け替えのない現実でもあり、歴史や人生が一回性の賜物であるならば、あらゆる一本の映画もまたそのようなものであって、こんな映画は、そんな奇跡性を具体的なフィルムの中に象(かたち)として宿らせた、そんな映画のように思えて仕方ない。

『火垂るの墓』(1988/日本/88分)高畑勲

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ある人間がある運命を現実に辿ったこと、そのこと自体を良い悪いで判断することなど本来は出来る筈が無いのに、物語として提示された全体を前にすると人は安易にそれを言い始める。物語には帰結があり、帰結があるかぎりで過程もあり、だとするとまるで何と何を足せば何が出て、あるいは何と何を引けば何が出る、といったような計算式でその全体を判断出来るかのように思い込む。しかしある人間が、その時代、その社会、その関係の中で自分という限界をかかえながら精一杯生きようという時に、果たして何を以てそれを良かった悪かったと言えるものなのか。

 

この映画が描くのは、つまるところ一連の出来事によって織りなされたつかの間の固有の人生、その瞬間的な実存であるのに過ぎない。たとえば兄妹はもっとこう生きることも出来たなどと論うことは容易いが、そんなものを論うことで見えてくるのは、所詮は戦争状況の罪悪だの個人の資質の適否だの、物語的な全体の帰結への判断でしかない。物語的な全体の帰結への判断が無意義なわけではないだろうが、しかしそんな判断の前では、現に映画の中に描かれた兄妹の生の事実そのものの尊厳は見失われる。この映画は、兄妹のつかの間の生の在り様をそれ自体として良くも悪くもなく、あるいは良くも悪くもあるものとして描き出す。清太の笑い顔や、節子の泣き顔、それ自体の映画なのだと言うべきなのではないか。

 

笑い顔が笑い顔であり泣き顔が泣き顔であること。その表情が通り一遍の記号的な表現ではなく、描線と陰影でできうるかぎり微細に描写されることで、一種の重みを獲得する。表情の主役を演じているのは、頬の表現かも知れない。泣く時には頬の形を伝って涙がこぼれ落ち、笑う時には頬の形が「く」の字にゆがむ。『おもひでぽろぽろ』では過剰に運用され過ぎて却って違和感を覚えさせていた表情の描写が、ここでは適度に抑制されて、たんなる心理的な記号というよりは、うごめくことそのものによる実存的な肌理=表象として機能している。高畑勲が表情に拘るのは、やはり人物に現実に生きている人間であってほしいからなのかも知れない。

 

この映画では色もまた地味にだが大切な役割を演じている。アニメーション映画には光がなく色しかない。色が光の具合をまで表現する媒体となる。色の設計による画面の厚みはそれ自体言葉には尽くし難いが、この映画の中ではとくべつ浮きあがる色のないことがむしろ映画の色となっているのではないか。戦時中の日常的な光景を描写するに、色のない色を表現する色の設計は、たんに彩色を配色するよりも画面に何気ない全体的なトーンをもたらし、即ち画面に厚みをもたらすことになる。またそんなとくべつ浮きあがる色のない中で、それでも印象に残像するのは、やはり幽霊となった兄妹を浮かびあがらせる赤色だろうが、赤色は美術的に闇の色とも言われる通り、光なき中での光の色でもある。光なき中での光はけっして物事を明るく照らしはしない。ぼんやり浮かびあがらせる感触を、それは実現する。

 

蛍の光で蚊帳の中につかの間の明かりを灯したその翌朝、あの無数の蛍はきっと死骸になっているに違いないと思えば、案の定幼い節子がその無数の蛍の死骸を埋葬しようとしている。そしてその幼い口から不意にもらされる母親の死の認識。清太の脳裏に瞬間焼き場に投げ入れられる母親の遺体のイメージが過り、たちまち清太のまなこには涙があふれだす。

無数の蛍の光は、無数の命の火で、それは戦火に焼かれて亡くなった無数の命の火なのだった。だから清太と節子も赤い火の色につつまれて、あるいは赤い火そのものとなってそこに灯り続ける。良し悪しではなく、生きていた、そして死んだという事実。それだけなのだと思えて仕方ない。しかしそれ故にこそ何ものにもかえがたく、掛け替えがない。最良の宮沢賢治のような戦争文学映画。